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散文詩 『春の壁』

メイメイと鳴いているのは春の壁だった。クリームからイエローのあいだの塗装色、希望は明るい影に溶けてしまった、ある適温無風の休日のことである。東京ばな奈を食べていたのは昨日、今日は光に目を細め団地の壁をながめている。ここは外のはずなのにだれもいない、かなしみもない、羽虫が手の甲を流れてきらめいている。マンホールの下から重い音が小さくひびいてくる。この街で自転車をこぐ人間には顔がない、それはそういう規制があるという噂を信じて人々が自主的にそうしているのである。わたしも自主的に壁をながめているのだが、ついに正午、太陽が頂点に達し、果てのない静止世界が出現した。正気をたもつために自分以外の動くものを探す必要があった。唯一の供とよべるのは先の羽虫である。壁は光を均等に受け、永遠の仮象を見る者につきつけ絶望させる。羽虫の姿を見失ったわたしは、あわてて団地のそびえる中を必死にさまよい歩いた。時間の感覚がなくなるような、長く短い空間を延々と。しかし羽虫一匹動くものを見つけることができない。もう精神と肉体の限界かと思われた時、陽がわずかに傾くのを感じた。ようやく安心できると思ったのもつかの間、すぐ近くでなにかが落ちる音がする。やわらかく重いもののようである。そしてまるで雨が降り始めるように、次々とその落ちる音は広がり、激しさを増し、轟音となった。あたりに動くものは何もないまま。おそれおののいたわたしは両耳を手でふさぎながら歩き、つまずいて壁に頭を打ちつけた。そして春は無音に。

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