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散文詩 『水』
滝は垂直に立つでしょう。赤子がおそるおそる立ちあがるように、それは秘められた約束でしょう。
縦にならぶ両眼から涙が落ちます。深い悲しみに貌(かお)は静物画のように固まります。ただただ、うごくのは生き物として流れる涙のせせらぎ。目尻からつたい、とどまらぬ流れはベッドに斑な池をつくるでしょう。感情は色とりどりの虫の姿をとっていますが、だれかが両手でたたき、つぶし、ころすのです。だれか、というのは正確ではありませんでした。だれかではなくなにかです。人ではありませんものね、秘密の約束を知っているのは。ベッドのかたわらにたたずむ心電図は、穏やかな音色をかなでます。たぶん今、世界中のどんなやさしい人のなぐさめよりも慈愛にあふれて聴こえます。その淡々とした波形は、どんなかなしい表情よりも憂いにみちています。わたしはみずからの手にふれることをおそれました。みずからの両手がそれぞれの体温を感じるのをおそれました。生きているのを確認するのがいやでした。どうか、滝の水のように冷たくあってほしい。それが羽虫のようにかぼそいかすかな願いでした。わたしの口は渇いた唾でくっつき言葉がでません。いいえ、言葉は唾でしょう。人に向かって吐きだせばそれは侮蔑の証。みずからの内にあればとても善きものです。涙も唾もからだの液体はすべて滝にゆずりわたしましょう。清廉な水に入れかわり、わたしは死ぬでしょう。
わたしの中ですべてを投げだしたように思えた時、のどの渇きがたえがたくなりました。何度も。激しく。つかの間の安逸が、強い苦しみにかわります。からだが重力を引き受けます。窓のカーテンがぼうと明るくなりました。月明かりでしょうか、夜明けでしょうか。わたしは静かな光を感じます。赤子のようにおそるおそる立ちあがり、冷たい床を裸足で洗面所まで、壁をつたって歩きます。蛇口の栓が思いのほか固く驚きました。ようやく勢いよくでた水を、むさぼるように飲みます。わたしは水を飲めます。鏡でみずからを見ることができます。薄明かりに浮かんだ顔には水平にのびた涙のあとがありました。
『水』
「ひからびて頭のないヘビにたとえる」(散文詩/掌編小説集)より