創作 故事来歴シリーズ 3 岩見沢
岩崎樫三郎氏の編纂による「戦後10年町村大合併当時の全道市町村の沿革と現状」に岩見沢についてこうある。原文の中の一節を引用しよう。
「明治2年頃より、当地を通行する者が多くなり、同11年、幌内炭鉱に至る道路の開削に着手。同13年、手宮幌内間鉄道工事に着手、同15年、鉄道開通とともに、岩手県人 狩野末治は官設駅逓所を借り受けて旅館業をはじめ、本市移住者の先駆けとなる。明治17~18年の両年にわたり、山口、鳥取ほか10県より士族団体270戸が移住して、農業経営に着手し、岩見沢村を建設。戸長役場を置いて開拓の基礎を築いた。・・・・」。
岩見沢という地名はこの旅館に人々が風呂浴びにやってくるようになり、やがて、その界隈を「湯浴み沢」と呼んだところから発祥している。
彼はそこで渡船の仕事を開始した。渡船場にはやがて橋がかけられ、狩野橋と呼ばれるようになった。
ところが、町が発展していく基礎が固まり初めた頃、狩野末治は、急に姿を消した。狩野家の墓を建立した直後である。しかし、墓には自分の名を刻むことはなかった。旅館は、その後も妻に引き継がれ、北海道紳士録には妻の名前が旅館業者としてろ登録されている。彼はどんな決心をしたのであろうか、謎である。この人物のその後の消息を語る資料は現在のところ見つけていない。それを探す人もいないかもしれない。
イク・スン・ペッ の「ペッ」 つまり「別」、あるいは「川」にまつわる故事来歴の創造、創作が可能な出来事であった。男が自分で築き上げた地位や業績をあっさり捨ててその地を去る。残った妻や子供たちとどんな思い別れたかそれもわからない。ただ残された妻や子供たちのために十分に準備をしている。ある意味かっこいい姿の消し方である。幾春別川は実に実に奥が深い漢字である。
岩見沢の歴史年表に若干外国との関連で年表を重ねてみると、以下のようになる。
明治11年 幌向ー三笠間の道路開削に伴い休憩所開設
明治12年 幌内炭鉱が開鉱(官営)
明治15年 幌内鉄道の開通 狩野末治宿泊所借受け定住者となる。
明治17年 山口、鳥取よりの士族入植開始
明治18年 1414名の士族が入植
ハワイ王国への官約移民開始
明治21年 岩見沢戸長役場設置
明治22年 鉄道が民間に払い下げられる
明治27~28年 日清戦争
明治30円 金本位制の施工
明治31年 岩見沢が村となる。最初の政党内閣の成立
明治33年 ハワイへの移民が禁止、代わりにアメリカ本土へ移民開始
明治38年 日露戦争
これを見ると、彼の耳にじっとしておられない情報が入ってきたのかいしれない。当時、すでにハワやアメリカに出かける人々もいた。ハワイではサトウキビ畑の労働者が不足し、ハワイ王国は日本に労働力を求めた。ハワイがアメリカに併合されるとハワイへの短期の労働は禁止されたが、今度はアメリカへの移住が始まった。アメリカも農業労働者が不足していたため、国内に困窮生活を余儀なくされた板人々にはかっこうの機会であった。
たとえば1900年の12月、広島から二人の従兄弟同士に男性が神戸の港からシアトルに向けて出航している。この二人の親や親族のある者たちは北海道へ移住する計画であった。そこへハワイやアメリカという選択肢も出てきた。從って親族のある者は北海道へ、ある者はハワイ、あるいはアメリカへと分散したケースもあった。現在アメリカで日系の人々で先祖が明治時期にアメリカに来た人も多い。最初は農業労働者として渡っていった人々であったがやがて鉄道の線路工事や農業、あるいは商いを始める人々も登場した。このことは後に筆者の村からアメリカへ出かけていた短期農業労働者の情報収集の中にも登場することになるが、この時はまだわからなかった。
しかし、その伏線となるものがすでに北海道にあった。それはたまたまであるが、当時、アメリカへ移住し、アイダホで線路敷設工事に携わった人々の中に、福島出身の人物を二人見つけた。この二人、空知集治監の章で述べた原利八という囚人が連座した加波山事件に関係していたのだ。
こうして幾春別川の故事来歴を追っていくうちに、登場する人々が次々とつながっていった。このことを考えると、狩野末治に関してもさらに追ってみたくなる。
私が資料不十分の拙文を発表する理由はここにある。もしかしたら、日本のどこかに、あるいは世界のどこかに、これまで述べた人々に関連した情報を持っている人があるかもしれない。それがつながり、線になり、そして面となって一つの家族の故事来歴が出来上がるかもしれない。そうなれば、それこど不思議な思いと驚きに胸を打たれ涙する機会がなるであろう。
そのことは実際、筆者の身に起きた。筆者の出身は鹿児島である。鹿児島は会津、福島とは仲が悪いと言われて育った。ところが、最近、自分のルーツに会津から来た先祖がいることがわかった。
言い伝えによると、江戸末期、会津から薩摩に養蚕の技術を伝えるために人々が派遣された。その中の一人が父方の祖母の系譜に登場する。これまで東北流れ、というだけで詳しい情報は無かったが、養蚕技術伝播の記録の中に見つけた。さらに、その先祖が明治の初め、追手に追われて斬り殺された、という話もあった。その経緯も全くわからぬまま150年もの時間が過ぎていた。しかし、最近、西南戦争に関する記述の中、隣村に没日が同じ数人の人がいると知った。理由は鹿児島で旗揚げした西郷軍に加わることを拒んでのことであった。それほど激しい時代であった。養蚕技術者たちとして村に定住した人物がやがて薩摩の敵とみなされ、追手が来て討たれた、在りえぬことではない。まだ結論には至っていないが、もしこれに確かであるとすれば、まさに自分の中に、会津の血が流れていることになる。故事来歴を調べるとさらに深い故事来歴に出会う。
イク・スン・ペッとはアイヌの言葉で「向こうの土地の川」という意味である。從って漢字で「幾春別川」となっているが、細かく言うと「幾春別川」は「幾春別川川」というのが正しいであろう。「ペッ」とはすでに「川」のことだからである。しかし、私はここにも幾春別川の故事来歴の新たな意味を発見する。つまり、幾春別川の漢字に含まれるもう一つの川の存在である。幾春別川は石狩川に流れ込んでいくが、もう一つは、全く関係のない土地の川にも流れ込んでいる。筆者でいうと鹿児島県の犬迫川という小さな川である。
明治維新の結果、日本中の人々が生き方を変えざるを得なかった。江戸の長い年月、土地を離れることがなかった人々が一気に北海道やハワイ、アメリカを目指して移動し始めた。働ける場を求めて、炭鉱や畑に向かった。それが鉱山であれ、さとうきび畑であれ、線路工事であれ、必死な人々にとってそれはどうでもよかった。その結果出合いがあり、変化が生まれ、日本が大きく変わっていった。時代に翻弄される人々いた。時代に命を投げ出した人々もいた。それでも人々は時代に向かって行った。北海道開拓の歴史がまさにそれである。今、かつての原野にはすいかやメロン、米、そして花が栽培されている。馬や乳牛が放牧されている。土地は北の最果てのぎりぎりの地であったが生活もまたぎりぎり限界線の生活であった。雪がちらちらとかぶっている布団の中で眠った。時には石狩川が氾濫し、畳がぷかぷかとういた、そんな話にことかかない。しかし、明治だけでなく、昭和になってからも存在した。
幾つかの展示館に行くと、一人一人が背負ってきた生活が展示されている。その実感をどこまで我々が感じ取れるか、それだけでなく、そこで聞いたこと、見たことをこの現在の時代がどう活用するか、これは我々の責任である。
激動の中、自らの家族への責任を果たし、ある日どこへ行くとも告げず、また、墓に名前を印すこともなく去っていった狩野末治はある意味で責任感のある人物であったろう。業績に固執することなく、それを捨てて去る、どこか映画のヒーローのような人物である。
図書館である冊子を読んでいると、北海道から酪農を学ぼうとアメリカに渡った青年の話が紹介されていた。この人物も相当肝の座った人物であったろうと思われた。彼は単身アメリカに渡り、カリフォルニアらアメリカの中部を目指した。イリノイ州である家を訪ねた。一夜の宿をお願いしたのであった。家人は「あなたなタバコを吸いますか、お酒を飲みますか」と質問され、タバコも酒もやらない、と応えると泊めてくれた、と、というエピソードが紹介されていた。その人物はやがて北海道に戻り牧場を経営となった。私はイリノイで彼が泊めてもらったある家族の生き方に共鳴するものがある。当時、アメリカイリノイ州にはそんな生活習慣を持った人々が住んでいたのであった。
また北海道には意外な歴史もあった。岩見沢から東へ行くと浦臼がある。そこには坂本龍馬ゆかりの人々の記念館があった。また友人が経営している花畑は岩村農場の一角であった。他にも武市家の農場もあった。三人とも高知の人々である。岩村に関しては、西南戦争後の鹿児島県県令であった。
北海道に来ると人に会える、魅力ある人々にあえる。
狩野末治のような人物がいっぱいいる北海道であり、明治である。これまで日本の歴史を見るに、明治維新、日清戦争、日露戦争、そして太平洋戦争と戦争に関わる出来事だけが中心となって描かれがちであるが、私はそんな進取の精神を持った日本人を見つけている。戦争に負けたことでややもすると卑屈になっている日本人から脱却したい、そんな思いを持ちながら今日まで過ごしたきた自分であるが、幾春別川に出会ってそれを払拭する機会になっている。「幾春別川」にはここにはまだまだ取り上げるべきテーマが存在する。ここの故事来歴を掘り下げる時、明治以降いや江戸時代やその前の時代も含めて、再度日本の歴史を考える糸口を見つけた次第である。
これからも、これまで通りの覇権主義がまかり通り、日本も外国も互いにしのぎを削ることであろう。政治の理想はまったく機能しない。このことを理解し、更にその上の視点を得るには、自国の歴史をもっと深く堀り共通の基盤に眼を向けさせる考え方、視点を必要としている。
歴史の中で何も言わず、何も言えず死んでいった人々の叫びに耳を傾けると、そこにには人種、国家、主義を越えた共通のい課題を見つけるであろう。それが人類を人類たらしめるであろう。
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