カプセル化の話。

知らなくてもいいという話。

「情報隠蔽」という言葉の持つイメージはどのようなものだろうか。何か大切な情報を隠したり、限られた人たちの間でだけ機密情報を独占したり、何となくそういう「良くない」イメージを連想する方も多いかもしれない。

しかし、システム開発の世界では、「情報隠蔽」は当たり前のように行われていて、しかも特段それに悪いイメージは無い。むしろ、そうすることが可能なら推奨すらされている。

えっ、悪どい業界?
いえいえ、技術的にそういう設計思想が存在する。

それは「カプセル化」と呼ばれるものだ。

カプセル化 【encapsulation】

カプセル化(encapsulation)とは、オブジェクト指向プログラミングにおいて、互いに関連するデータの集合とそれらに対する操作をオブジェクトとして一つの単位にまとめ、外部に対して必要な情報や手続きのみを提供すること。外から直に参照や操作をする必要のない内部の状態や構造は秘匿される。

「カプセル化」とは


この文章の定義を見ても分かりにくいけれど、端的に言ってしまえば「知る必要の無いことは知らなくていいよ」ということである。

少し微妙な例だけれど、クルマを運転する際やパソコンを操作する際、いやスマホでもいい。そういった「自分が作ったわけではないモノ」を使おうとした時、その内部構造を意識しなくても使えるだろう。

その機械の中身がどういうふうに作られていてどういう運動や信号で動いているか、つまりその内部の仕組みは分からなくても、とりあえずそのモノの使い方が分かれば使えるはず。

それは、そのモノの中身が隠されている、つまり「カプセル化」されているということだ。

システム開発の世界では、0から100まで全てを自分一人だけで作るというケースはあまり多くない。というか有り得ない。多分。

よほど小さいシステムだったり、作るその人がハイパースキルをお持ちの場合であったりしない限り、自分以外の誰かが作ったものを利用してそうやって色んな部品を組み合わせて一つのシステムを作り上げる。

そしてその部品は、プロジェクトとして誰か一緒に開発するメンバーが作ったものかもしれないし、有志の人が全世界中に「これよかったら使ってください」と公開してくれているものかもしれない。

そういった時に「この中身はどうなっているのだろう」と考えてもいいけれど、いや、むしろそれを考えなくてもシンプルにインプットとアウトプットがはっきりしているものなら喜ばれる。

逆に、中身を知らないと使うことができない部品や、複雑な作りでどう使ったらいいかも分からないような部品は喜ばれない。というか、正直使えない。そんなのは使いにくくてしょうがないのだ。

だからそういう時に「カプセル化」されていることは非常に重要だ。本当に必要なところだけがオープンになっている。それ以外は隠されている。自分が使う分には最低限どういうことをすればどういう結果が出るかが分かるなら、それでいい。(ただし、中身を知りたいと思って深掘りして調べることは、それはそれで構わないとも思う)

さて、前置きがめちゃめちゃ長くなった。

最近の世の中を見ていると、オープンであればあるほど良いというような風潮に感じる。何か情報が隠されていて、その事実が明らかになると途端に「なぜオープンにしなかったんだ」というバッシングがされたりする。

あるいは、本来はごくプライベートな間柄でしか知り得ないような情報が無理やりに曝け出されて、それを公にすることがまるで正義であると言わんばかりの堂々ささえ見受けられる。

だが、果たしてそうなんだろうか。

思うに、本来人々が知りたがっている情報や知るべき情報、知らなければならない情報がオープンであることはたしかにありがたいかもしれない。

けれど、本音では別に知りたくもないような情報もオープンにされるよう強制されているような気がする。知りたくないだけならまだしも、知られる必要も無かったんじゃないかと思うような情報でさえも。

・有名人の不倫現場の詳細な状況、
・事件の関係者の生い立ちや家族構成、
・炎上した企業に勤める従業員の個人アカウント、
・政治家の過去の発言や怪しい疑惑・・

本当かどうか分からないけれど、外野が騒ぎ立てる。
中には、凄まじいスピードで特定する人も現れる。

だが、知りたいのか?興味あるのか?
本当に、そんなことを。
その大きな流れに対して、私は戸惑う時がある。

知りたくなきゃ見なければ良いだろう。
それはそうなんだろうと思う。

あるいは、人によっては大切な情報ということもある。
それもそうなのかもしれない。

けれど、そのニュースや話題に触れる人たちのうち90%以上の人にとっては、実際にはどうでもいいようなことではないのかなと想像してしまう。

他方で、そのオープンにされた側の人たちにとっては決して「どうでもいい」と片付けられないほどに、自身や身の回りの人の社会生活を変容させられてしまうケースもあろうと思う。

報道の自由。知る権利。

そういったものが何か、以前よりもずっと、そして当事者ではない人が想像している以上に肥大化しているように思える。

それは正直怖い。外野が騒ぐのは勝手かもしれないが、騒ぎ方が異常だ。社会的な集団リンチになっているようなケースもある。

だから、ひとたび当事者側に引き摺り込まれたら、つまりもし自分が晒し首になったらと思うと、怖いのだ。

炎上ネタなんかは、匿名の人間が集まった巨大な暴力の塊にとっては最高の遊び道具なのかもしれないが、オモチャにされたほうは下手したらその人やその家族の人生が終わってしまいかねない。

随分と、カプセル化の話から脱線してしまった。

とにかく、「知らなくていいこと」たくさんはあると最近思う。一方で「知らんぷり」していることも多いような気がする。なんとも自分都合で勝手な言い分だけれど、そういう情報に対する意識の向け方や取り扱い、そういったものは、今まで以上に取捨選択していかなければならない時代になっているのだなと実感するのだ。つづく。

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