家族における自分の存在の話。
我が家のゲーム機の調子が悪い。らしい。
らしいと書いたのは、私は普段そのゲーム機を使って遊んでいるわけではないので、実際本当に調子が悪いのかどうか分からないからだ。
具体的に言うと、Nintendo Switchなのだが、ゲーム機本体を充電用ドックに装着しても反応が無いことがある。
個人的には不便だなと思う仕様なのだが、その本体をドックに接続すると充電のみならずテレビでゲームの画面を表示できる「TVモード」なる機能がある。言わば、ポータブルでも据え置きでもどちらでも好きに遊べるということのようだ。
Switchはほとんどいつも息子が使っていて、その「TVモード」にならなくて何やら機嫌を損ねていることがある。ゲーム機をガシガシとドックに何度も突き刺す場面を私は目にしていて「乱暴に扱っているなあ」と思っていた。
それであまりにもギャーギャーうるさいのでちょっとドックの接続部分を見てみると、端子の部品が少し欠けている。ように見える。
決定的に何か部品が取れているというわけではなさそうだけど、日々乱暴に扱ったことで幾つかの傷ができていた。そのためにゲーム機本体との接続が上手くいっていない可能性も考えられた。
まあそれは彼の自業自得だ。何とか頑張ってゲームしてくれ。それじゃ!
と言って突き放しても良かった。
が、しばらくすると私は、自分のスマホで検索エンジンを表示させて、「Switch ドック 別売りや」「Switch ドック無し TVモード」というキーワードで検索をしていた。無意識にそういう行動をしてしまっていた。まるで当たり前のように。
このままでは早晩、私は彼のためにSwitch関連のアクセサリーを買ってしまうだろうと思う。彼が何不自由なくゲームできるように。
が、自分はどうだったんだろうと思い返す。
私も子供の頃はゲーム大好き人間だった。
当時はお小遣い制ではなかったが、近所に住んでいた親戚が多くてしかも遊びに行くたびに臨時お小遣いを貰えていたこともあって、自分で使えるお金は割と多かった記憶がある。欲しいゲームなどもそこから買っていたと思う。
だから、親が私のためにゲームソフトを買ってくれたケースなどほとんど無かったのではないか。というか何より、親は私のゲームソフトの嗜好だとかどのようなゲーム機を使っていることなど知らなかったはずだ。
そういった意味では、今の私と息子の状況とかなり異なる。我が家はお小遣い制だし、私は息子が遊ぶゲームのほとんど全て把握している。何かあればこちらで対応できると思う。
これは健全なのか?とちょっと疑問に思った。
もちろん今はまだ子供が小さいのでそう出来ているというのもあるかもしれない。いや、敢えてそうしている部分もある。
昔と違って、今のゲーム機はインターネット接続が当たり前になっており、不特定多数のユーザーと簡単にコミュニケーションが取れる状態だ。それは裏を返せば、情報リテラシーというかネットリテラシーを持ち合わせていなければ、ネット社会でトラブルを起こす危険性が高くなると言える。だから、敢えて、まだ子供の年齢が低いうちは親が管理する部分も必要ではないかと私は考えている。
もっとも、子供が成長して中高生になり、自分で物事の良し悪しだとかそういったリテラシーをもう少し身につけるようになったら、その管理は必要ないと思っている。
しかし、ではそれまでの間、親が全て管理するので良いのか。何か不備があれば親側で全て問題を解決するような対応が正しいのか。それでは子供側で自分で考えて行動する能力だったり、ゲームハード等の専門性を身につける機会だったりを奪うことにならないか。
そのようなことが心配になった。
ということで、私が無意識にスマホでAmazonのアプリを開いて、彼のためにSwitchのドック代わりになるtype-c規格の端子の付属したHDMI変換の接続ケーブルを今にも買おうとしていたところで、少し立ち止まってみて自分で自分に問いかける。
彼のためにやるのは分かる。でも、彼のためにであれば、自主性をもう少し考えてあげたい。
具体的には、彼に今のままで不都合があるのか確認する。不備があるならどうするかよく相談する。その解決のためにどのような手段が必要か。彼の中でその答えがあるなら、親としてサポートできる範囲でそれに応じる。
一旦、ゲームにまつわる親と子の関係の話は以上になる。
ところで私は、それとは別に今回のことで、もう一つ気になることがあった。
それは、Amazonアプリでその接続ケーブルを買う際に、送料無料にするために他の商品も併せて買おうとしていた時のこと。
その商品候補の中に、私が欲しいものが一切無いということだった。
私自身で欲しい商品が無いというわけではなく、そのような思いを一切考えずに、家族のために何か役に立つような商品ばかり探していたのだ。文房具、洗剤、家電、化粧品。生活用品と言えるものだ。私の嗜好品はそこには無い。私のポケットマネーで買おうとしていたのに。
一見、良きパパ・良き夫というイメージになるかもしれない。しかしその行動は裏を返せば、私という自分の意思がまるで存在しないということになる。
私という人間が不在になっているのだ。
これは、親は子供(家族)に尽くすべきだという私自身の信条のようなものがある気がする。もっとも、この考え方は絶対的に正しいとは思ってもいないし、人によってそれは違うはずだ。あくまで私にとってはそういう思いで居るというだけだ。
ただ、その私自身が居ない状況は、ふと客観的に想像してみた時に、なんとなく異質というか違和感のようなものを覚えたのだ。
なぜ私は自分のために何かを買おうとしない?
欲しいものを考えない?
どうして私のために行動をしない?
そういう思いが渦巻いたこともあって、ちょっと今Amazonで子供のための商品を買うのはやめておこう。そう思ったのだ。
親が何かしてあげること。そこにあるのは子を思う親の思い。だが、行き過ぎたそれは本当に子のためになるのか。何でもかんでも親が全てやってあげることの弊害。
それから子や家族のために自分の利益を無視して行動すること。それは家族のためとはいえ、自分自身は家族の中に含まれていないのではないか。私心は最初から無いのか、はたまた敢えて無くしたのか。
これらに共通するのは、いずれも自分という人間の「存在の仕方」という問題のように思う。主張し過ぎているか、主張が無さすぎるか、だ。今の私は、それぞれのケースにおいてその両極端に位置してしまっている。そんな気がした。
というわけで今回そんな自分に気付いた。生活を、自分の思考や行動を、もう少し丁寧に見て生きていきたい。小難しく考え過ぎなのかもしれないけれど。つづく。