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ピアノのレッスンに見た「暇」の話。

小学校に上がった娘は、ピアノの習い事をしています。

いつも妻がピアノ教室まで付き添ってくれているのですが、その日は妻の都合が悪く、私の方で付き添うことになりました。

教室に到着し、レッスンを開始。

その間、基本的に保護者が何か介入することは無いので、親としては、待合席みたいなところに座り、ただただレッスンが終了するのを待つのみです。

私は日頃からポケットに文庫版の本を入れいるものですから、レッスン中は途中まで読み進めていたその本を読もうとページを捲り始めました。

私は「暇」だから、当たり前のようにそうしていました。

もっとも「暇」つまりこういう「何をしていたら良いかよく分からない」という場面は日常の中によくあって。電車の中とか、外食に行って料理が出てくるまでの間とか、とにかくそういう時間があったりするわけです。

そういったときに、大抵スマホをいじってしまいがちなんですけど、天邪鬼な私は、出来ることならその行動を避けたいと思って本を読むことにしています。

今回も、当たり前のように本を読み始めました。

ですが、ふとページから目を離して、顔を上げてみました。

すると眼前には、普段は見たことのない娘の姿があります。

先生に言われて、リズムに合わせて一生懸命にピアノの鍵盤にその手を這わせている。心なしか娘の手はわずかに震えており、緊張感がこちらまで伝わってくるようでした。

言われた通りのリズムの中で、譜面の最後までメロディを奏で終わると、ふっと緊張感が解けて娘に笑顔が戻る。それを見ていた私も同時に「ああ、良かった」と安心感を覚えました。

それは、何のことはないレッスン風景なのかもしれません。

しかし、その鍵盤を弾く様子の中に、家では末っ子で甘えん坊な彼女が、親以外の誰か他人の話を真面目な表情で聞いて、真剣に何かの目標を達成しようと頑張る姿を垣間見た気がしました。

「ああ、いつまでも小さな子供だと思っていたけれど、娘は娘の中で社会性を身につけて、成長を遂げているんだ」と感じました。

そしてその様子は、下手なドラマなんかよりもずっと刺激的で冒険的で、見ているこちらがハラハラドキドキワクワクするものでした。

娘のレッスン中、正直言って「暇」だから、私は本を読んでその時間を潰そうとしていました。

でも、とんでもない。それは決して時間を潰すような類のものなんかではなく、大変に面白い出来事が詰まっていたものでした。

私は本が好きで、いつでも何処でも暇さえあればそれを読む時間を作り出したいと思っていました。ですから、前述のようにポケットにいつでも文庫本を入れていました。

ですが、今まで私が本を読んで潰していた時間の中には、今回のように本当は目の前の現実のほうが面白いと感じるようなケースはあったんじゃないかと思えてきました。

Fact is stranger than fiction.(事実は小説よりも奇なり)

この言葉の意味が少し分かったような気がしました。

strange は変だとか奇妙という意味かもしれないけれど、今まで知らなかったことに触れて心が動くというような意味なのかもしれない。そしてそれは文字通り、本などの中にある創作以上に、現実世界の中でありありと感じられるものなんだろう、と。

そう私は解釈しました。

結局、本のページを閉じた私は、その後ずっと娘のピアノを弾く姿に釘付けになり、あっという間にレッスン終了時間になっていました。

もちろん、読んでいる本は好きだし面白いんですけど、もしかしたら現実の中にもそれと同じかそれ以上に面白い要素が潜んでいて。それを見つけるのはやはり自分次第なんだろうと思います。

逆に言うと、その要素を見つけられなかったり捨ててしまうのも、自分ということで。

「暇だなあ」と思う時間。それはたしかにそうかもしれないですが、自分のフィルターが作り出した評価でしかないかもしれない。そんなことを思いました。おわり。

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