心理的安全性の話。

購読している雑誌のコラムで、「心理的安全性」というキーワードについて書かれていて、少し前のめりになって読んでしまった。

言葉の定義は、下記の通り。

▼心理的安全性とは

「心理的安全性(psychological safety)」とは、組織の中で自分の考えや気持ちを誰に対してでも安心して発言できる状態のことです。
組織行動学を研究するエドモンドソンが1999年に提唱した心理学用語で、「チームの他のメンバーが自分の発言を拒絶したり、罰したりしないと確信できる状態」と定義しています。メンバー同士の関係性で「このチーム内では、メンバーの発言や指摘によって人間関係の悪化を招くことがないという安心感が共有されている」ことが重要なポイントです。

心理的安全性が高い状況であれば、質問やアイディアを提案しても受け止めてもらえると信じることができ、思いついたアイディアや考えを率直に発言することができます。
例えば、旧来の手法への提言や革新的なアイディアについてオープンに話し合える雰囲気がある組織は、心理的安全性が高いといえるでしょう。
https://www.recruit-ms.co.jp/glossary/dtl/0000000230/

恐らくだけれど、ポイントは「チームの他のメンバーが自分の発言を拒絶したり、罰したりしないと確信できる状態」というところだ。

私が読んだ雑誌では、こんな文脈で使われていた。以下、私の解釈も込みの内容で、こんな感じ。

ちょっと専門的な話になるが、今流行りの DX つまり、デジタルトランスフォーメーションという、 IT 技術によって業務が劇的により良く変わって会社全体が変革を起こすような取り組み(※すみません、私が解釈したものなので、正確な「DX」の意味ではないです)等においては、たしかに「心理的安全性」というのは大事だ。

なぜなら、たとえば会社内で、新しい事業やサービスを始めようとした時に、やいのやいの言われたり、もし失敗したら怒られたり評価が下がったり、というような風潮が存在するのであれば、未知のことに挑戦しようとする人は誰も居なくなるからだ。「ああ、この会社(チーム)では、チャレンジングなことだったり、そういう発言をしても、責められないんだ、咎められないんだ」という精神的に安心できる基盤があってこそ、新たな取り組みを推し進めることができるというわけだ。

だから、言わばそういう「新しいことをする」チームは、失敗を恐れずどんどん挑戦すべきだ、と。

けれども、それは、そういう「攻め」のチームだけの話だろうか。

従来のシステムやサービスの保守開発や運用を担っているチームにとっても、実は、そういう「心理的安全性」といった視点は大事ではないか、ということだった。

私も経験があるが、「動いて当たり前」という環境で日々働いていると、ひとたび何かしらの不具合が発生してその「当たり前」が崩れた瞬間、烈火の如くクレームを入れてくる人が居る。社内であっても、「一体どういうことだ、何とかしろ」と厳しく責め立てられ、挙句、評価にまで響く可能性もある。

しかしそういった環境で、果たして個人がのびのびと働き、元気で優秀なチームに育つだろうか。むしろ、失敗を恐れるあまり、事勿れ主義で前例に倣って粛々とルーチン業務をこなすだけの組織が出来上がる。保守・運用部隊は往々にしてそのような傾向になることが多い。だって何事もないことが正義で、それが満点で、何か新しいことをして少しでも失敗したら減点されるからだ。何もしない方がいいのだ。

そもそも、本来、システムやサービスは、不測の事態は必ず発生する。ソフトウェアバグや、ハードの故障、オペミス、サイバー攻撃などの犯罪行為。事前に想定して、ありとあらゆる対策を講じておくのは前提だとしても、どうしても防ぎきれないケースはある。

だからこそ、そういった事態に陥った時に、如何に迅速に正確に復旧を試みることができるか、というところをきちんと重視すべきだと。「ああ、この人(たち)のおかげで、こんなにも被害が少なくて済んだ。ありがとう」といったような感謝

そして「何か起こっても、まず叱責されるのではなく、状況を立て直し、ダメージを減らすこと」そのことを職場全体で全力で取り組んで、その中で結果として良い面を評価する。そうでないと、萎縮してしまい、本来のパフォーマンスが出せない可能性もある。だから、働いていて、たとえ何か起こっても、環境として「安心できる」「堂々として構えていられる」という状態にすることが大事だということだ。

というふうに、私は理解した。

なるほどたしかにそうだろうな、と思った。と同時に、「これって恐らく会社内の出来事だけに限定されないよな」とも思った。

つまり、家庭内でもそういった「心理的安全性」は大事だ。というかむしろ、家庭というのは、本来であれば「子供はのびのびとして、好きな発言も好きな行動も、安心してできること」というのが前提にあると思う。(もちろん、幾ら好きなことをしてもいいとは言え、人に危害を加えないだとか、危険な行為をしないとか、そういったことはさらに大前提で。)

しかしながら、自分のことを振り返った時に、つい「親である自分の都合」とかを優先して、その論理で子どもに接してしまっているかもしれない。

・なかなかお風呂に入ろうとしないで遊んでいる子供たちに対して、「早くお風呂入っちゃいなさい!」と強めに言う。
明日朝早くに打合せがあるため、早くお風呂に入って早く寝て、十分に睡眠をとりたかった。(本音)

・一緒に買い物に行っても、フラフラと歩き回って商品棚を物色する子供に対して、「商品カートとか、他の人にぶつかると危ないから、フラフラしないで!」と言って、抱っこして買い物を済ませてしまう。
買い物を済ませて、早く帰宅したかった。(本音)

・「片づけをする」と言ってなかなか始めない子供に対して、「そんなに掃除しないのなら全部捨てるよ!」と脅してしまう。
少しでも家の中は綺麗な状態のほうが、気持ちが良いし、仕事をやりやすいから。(本音)

口で言っていることは、たしかに嘘ではないのだけれど、実はその心は大きく自分の都合が占めていたりする。ダブルスタンダードなのかな。自分が子供の立場だったら、これでは「安心」した気持ちでいられるかと言ったら自信は無い。

だから、やはり念頭に置くべきは、ちょっとくらい子供が好きにしていたって、それを容認する包容力。それを身に着けることが、今の私に必要なことかもしれない。それこそが子供にとっての「心理的安全性」に繋がる気がする。

家族が暮らしやすい家、それは物理的な要素はもちろんだけれど、同じくらい精神的な要素も、大きく関係しているのだろうな。

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