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「我以外皆我○」の話。
先日、息子の授業参観に行って感じたこと。
小学3年の息子の授業参観に行ってきました。
彼が挙手するとか発言するとか、実際そういうのはどうでもよくて。いえ、そりゃ元気よく何か学校で頑張っている様子を見せてくれるに越したことは無いです。
しかし、私自身、子供の頃にそこまで積極的な生徒だったかと言われると自信を持ってそう答えられないわけで。そうなると、私ができなかったことを息子に求めるのも何だか違うよなという気がするのです。
別に息子は落ちこぼれではないですし、かと言ってずば抜けて優秀というわけでもない(ごめんね。でも私の子供の頃よりもはるかに賢いと思う)。勉強という物差しで見ようが見まいが、私は、彼が学校生活を楽しく送ってくれさえすればいいと思っています。
その点、参観していた限り、彼は、休み時間中には友達と仲良く話していたり、授業で指されてもそれなりに正解を答えていたので、もうそれだけでも父親としては満足です。「その調子で、がんばって自分なりに学んで行ってくれ!」と願うのみです。
さて、本題はそこではなくて。
気になったのは、授業そのものよりも、保護者たちの態度。
私も含め、保護者は教室の後ろの方で立ち見をしていたんですけど、子供たちが発表している時にも、ペチャクチャ喋っている人が居るんです。
ちょうどその時仕事がいっぱいいっぱいで心に余裕が無かった私は、その話し声がするたびにイライラしていました。
「せっかく子供たちが一生懸命に話しているのに、
あんたらのお喋りで聞こえねえだろ…」
何度心の中で毒づいたことか。
けれど、口に出しては言えなかった。ここは勇気を出していうべきだとも思いましたが、結局言えずじまいでした。
そして授業が終わりました。
生徒たちは先に下校し、保護者たちだけ残って先生からの説明会が開催されました。
席は一応決まっていたので、私も指定の席に座りました。先生から学校生活や長期休み、次年度の説明を聞きます。
すると、説明会も終盤に差し掛かり、グループワークと言いますか、周りにいた保護者の方とちょっとした「意見交換」のような時間が設けられました。
その時、私は、近くの席に座られていた一人の親御さんと何気ない会話をし、自身の子供たちの家庭内の様子だとかそういう情報を共有したりしました。
グループワークの時間が終わると、先ほどまで私が感じていたイライラはいつのまにか消え去っていました。
そうか。私は、怖かったんだ。孤独だったんだ。
そう気付きました。
保護者たちの中には、ママ友というような関係で、まるで友達のように複数人で集まって楽しそうにお喋りする人たちが居ます。
他方で、私はというと、子供のクラスメイトの親御さんと交流も無く、授業参観だとか説明会だとかでは誰とも話さず(いえ、話すことができず)、一人で居るのです。
そんな状態で居ると、楽しく話し合っている保護者たちのことが羨ましくて、それに比べてこんなに自分は寂しくて、その孤立感からか、ついイライラしてしまっていたのだと分かりました。
思い返せば、授業中に喋っていた保護者の人たちの声のボリュームなんて、実はそこまで大きくなく、子供たちの発表の声を妨げるほどのものではありませんでした。
それなのに、もし、私があの時「うるさいんですけど。静かにしてくれません?」と言ったらどうなっていただろう。
きっと、物分かりの良い、常識的な保護者の方であれば「あっ、すみませんね」と言って、私の忠告を聞き入れてくれたかもしれません。
でも、言われたほうはずっと心にトゲが刺さったままになってしまう可能性もあります。
「そんなにうるさくしていたつもりはないのに」
「あの人、感じ悪くて嫌ね」
酷いケースでは、そのようなネガティブな感情を教室中に蔓延させてしまっていた可能性もあります。
せっかくの授業参観が、危うく私の一言で台無しになるところでした。
危なかった。言わなくて良かった。
自分の臆病さに救われました。
ところで、こんな言葉があります。
「我以外皆師(われ、いがい、みな、わが、し)」
自分以外の人たちは、良い人であれ悪い人であれ、どのような人であっても何かを教えてくれる先生のようなものである、と。そう解釈しています。出典はどこだったか忘れましたけど。
これは実に立派な言葉で、頭ではそのような心持ちで居たい気持ちは常にあります。どんな状況であっても、どのような人間関係の中でも、何かしら自分にとって気付きや成長の種となるところはあるはずだと。
ですが、実践するのはなかなか難しい。
あろうことか、私はもしかしたらその授業参観中、
「我以外皆我『師』」
どころか
「我以外皆我『敵』」
と無意識に考えていたのかもしれません。
恐ろしい。
クラスメイトの親なんて、恐らくそのほとんど全員が「子供たちが元気に楽しくのびのびと学校で学んでほしい」という、親として同じ思いを抱いているはずなのに。
私はそのようなことも気付かず「敵」と見做していたかもしれないのです。自分の寂しさを紛らわせるという自己中心的な思考に陥って、同じ方向を向いているはずの親という同志を排除しようとしていたのかもしれません。
「我以外皆我◯」
この「◯」に入る言葉によって、まるで目の前の出来事の捉え方が変わるということです。独善的な私には、今一度もっと広い視野と度量で現実に向き合うことが必要だと、つくづく思いました。そんな授業参観。おわり。