セルフレジと利己的な優しさの話。
今日の一文。
どこで聞いた言葉だったんだっけ。
でも心に残っている。
いつもは前者の、子供に関することばかり記事にしてしまいがちだけれど、今回は後者。年寄りに関する記事。
改めて、その言葉を思い出した出来事についての話。
先日、スーパーマーケットで買い物をしていた時のこと。
ちょっと空いた時間でパパッと買い物を済ませて帰りたかったものだから、幾つかあるレジを見渡し、最も列の短くて空いていそうなレーンを見つけて並んだ。
すると、途中までは順調にお客の列が捌けて行ったが、私の目の前で、突然レジの流れが滞った。
見てみると、どうやらお客は、かなり年配のおじいさんらしかった。「お会計、3,200円になります」と店員さんが言うと、おじいさんはゆったりとした動作で財布を開き、そこから、何枚もの商品券を取り出した。
このスーパーは、お客が買い物カゴをレジに持って行くと、レジ打ちと会計まで店員さんがやってくれるレーンと、レジ打ちだけ店員さんがやって会計は機械で自分で行うレーンがあった。
後者を「セミセルフレジ」と呼ぶそうだが、私はこの仕組みをいたく気に入っており、かねがねレジの行列がなかなか進まない原因は会計時のもたつきによるものだと考えていた。それを、買い物のルートから切り離して、完全に直列ではなく一部のみであっても並列処理でそれを行うことができるこの「セミセルフレジ」は、何と画期的な仕組みだろうと感動したものだ。
少し脱線するが、自分でレジ打ちをするタイプの「フルセルフレジ(完全セルフレジ)」も世の中には存在するが、私はこのタイプについては好きではない。
いちいち商品によって貼り付け場所が異なるバーコードを探してピッとやる動作が、私は得意ではないのだ。何となくイレギュラーというか、場所を探して角度を変えて、という動作そのものが効率が悪く感じてしまう。それなら、ピッとレジを打つ動作は、手慣れている店員さんに任せて、会計だけは自分がやりたい。財布とかカードを出す動作は、今まで何万回と同じことをしているので、不器用な私でも慣れているからだ。
さて、そういうわけで今回も、当然のように私は「セミセルフレジ」に並んだわけであるが、その列の流れを堰き止めていたおじいさんには、そのような仕組みなど知ったことではない様子で。
一枚につき500円分の商品券を、彼は一枚一枚やっと財布から取り出して、レジ前の台に置いていく。わざとやっているようなスピードではない。それが彼の最速なのだ。
お代は3,200円だと店員さんは言っているのに、おじいさんは商品券五枚、つまり2,500円分しか出していない。
店員さんも慣れていない様子で、時間を追うごとに長く伸びていくレジを気にして、それを捌くことに必死になっているように見えた。
「2,500円お預かりしたので、残り700円です。こちらの精算機でお支払いください」
ようやく「セミセルフレジ」の出番かな。並列処理するから、次は私の番だ。
そう思ったのも束の間、おじいさんは、店員さんの言葉を聞いて、また財布を開き、商品券をさらにもう一枚取り出した。
内心そんなツッコミをしてしまった。おじいさんにはそんな私の声を感じ取ったのか、
と言い、私の方を向いて、バツが悪そうにしていた。
その顔を見た私は、何とも居た堪れない気持ちになってしまった。
そして、おじいさんは自動精算機に移動したはいいけれど、やっぱりそこでも現金の支払い方が分からなくてマゴマゴしていた。たかだか200円を支払う方法に手こずり、店員さんの方もちょっと面倒そうに対応していた。
一体何が正解なのだろう。
空いているレジを見つけ、ラッキーとばかりにそこに滑り込み、おじいさんの会計が手こずるとすぐに私は、こんなことを思ったのだ。
私は何と非情な人間であろう。混んでいる時間帯だし、少しでも空いているレジを選んだのが裏目に出た形だ。途中まではそれを失敗談として、次の再発防止策の検討材料にすればいいと考えていた。
でも、果たして本当にそうなのだろうか。
それで終わりにしていい話だろうか。
あの悲しそうなおじいさんの背中を見ていたら、きっと彼はもしかしたら未来の自分なのかもしれない、とも思えたのだ。
社会はどんどん便利になっていく。技術はますます進歩していき、昨日できなかったことが今日にはできるようになっていることも多い。だが、その一方で、置いて行かれた人は、その流れに乗れなかった人は、淘汰すらされかねない状況もある。
「新しいものについていけない」
それだけで大罪を背負わされたかのように、周りからは白い目で見られ、陰でコソコソ笑われる。煙たがられる。
それはたしかに、どんなに歳を取ろうと、最新の技術についていき、習得できる人も居る。六十も七十も過ぎても、今や片手に収まるスマホという名の小型高性能コンピュータを使いこなす人も多数いる。
結局は「自分でやろうとするか、やらないか」の違い、つまりそこに主体性を持った意思と姿勢の差でしかないのかもしれない。
でも、だからと言って、「取り残された人」は、置き去りにしてままでいいものでもないように思うのだ。
そこに必要なのは「優しさ」だというふうに私は思う。
それは、私が彼らを助けたいとか、私自身がそういう優しさを持つ優しい人だからでは、決してない。
それは、繰り返すが、彼らは「未来の自分」かもしれないからだ。
自分を守るために、自分を大切にするために、そんな利己的な思いから、私は「優しい世界」を望むのだ。
情けは人のためならず。
明日は我が身かもしれないのだ。
私は、ある程度専門職というか、システム開発業務に従事しているので、仕事柄パソコンのことに詳しいような立場に居ることが多い。
実際は全然そんなことはないのだけれど、勤務先の会社では高齢の人も多くて、機械関係に疎いという人も少なくないので、比較的、そういう人に対してはアドバイスをしたりだとか、何か情報提供をする側に立ったりする。あまり好きではない言葉だけれど、情報リテラシー的に、そういう構図がある。
そういう時に、彼らの中には「自分はパソコン関係が苦手でね」と言われる人も居る。
それは、実際そうなのだろう。
けれども、「ただ純粋に苦手」ということと「新しいことにはついていくつもりはない」ということに、明確な差があるように見えてしまう。
だからと言って、「ついていく努力」を常に如何なる状況でもしなければいけないかというと、それも、違うような気もする。
私には、そういう人に「あなたのその努力を放棄した怠惰な姿勢を『苦手』の一言で片付けないでください」なんて、言えるほど自分が高尚な人間とは言い切れないからだ。
仕事柄、今はまだ最新技術とかには目を配っているけれども、分野が異なったり、今後年取っていったりすれば、もしかしたら自分も「ついていけない」つまり「ついていくのをやめる」側に身を置くかもしれない。
そうなった時に、「あーあ」と人から思われてしまうような人になってしまうのかな、と思うと、どうしても彼らのことを他人事として見ることはできないのだ。
可能なら、優しい世界を。
他人というよりも、自分を救うための優しさ。
それが冒頭の一文。
これから自分も「行く道」に見えてならないから、どうにもそんな都合の良いことを考えてしまうのだ。おしまい。