手段と便利さの話。
仕事で少し行き詰まったことがあった。
それは何かトラブルが起きてしまって思い悩んでいるとか、ピンチの状況に陥って暗礁に乗り上げて困り果てているとかではなく、単に「さて、どうしようかな」と考えて唸っているレベルである。
私の仕事は社内システムの保守開発で、与えられた要求に沿って「これはどうやって実現しようかな」と思い悩む場面がたまにある。
大抵の改修依頼は、既存のプログラムを参考にすれば「この部分はこうすれば上手くいくだろう」という解がすぐに出てしまうので悩まない。既存のプログラムも大半は自分がその作成(またはメンテナンス)を担当していたりするので、どこをどう探せば良いかすぐに分かるし、その開発方法のノウハウも分かる。
しかし、稀に、既存の処理ではやっていないけれど、新たにゼロから自分で考えなければならないような処理の設計が必要なこともある。しかもそれは、さほど複雑ではなく、案外シンプルな流れの作りだったりするのだ。
そのような場面では、「さて、どうしようかな」と思考する。上手くいくであろう道筋を立てて、つまり仮説を考えて、それを検証する。上手くいけばOKだけど、上手くいかなければもう一度スタートラインに立ち返って、また新たな仮説を立てる。そうやって何度も繰り返して上手くいく方法を探す。
そのプロセスは、私にとってとても楽しかった。
だから、冒頭で「行き詰まった」と書いたけれど、実際にはそれによって負のストレスを感じることはなかった。「あー、どうしようかな。どうしたらいいかな」と頭を悩ませている感覚。
それはまるで子供の頃遊んだRPGゲームでなかなかボスが倒せなくてそれをどう攻略するかに頭を悩ませるのと似ている。それは苦しいのではなく楽しい嘆きだ。
今回もそれと同じケースだった。はずだった。
しかし、何度か仮説検証してもなかなか上手くいかない。そして無情にも時は過ぎ、どんどん納期は迫ってくる。ずっとこの問題に取り掛かっている余裕は無い。そうなると、結果が出ないことにだんだんストレスを感じ始めてくる。
そこまで期限ギリギリというわけではないが、あくまで参考情報として、生成AIに同じようなケースでどうプログラムを書いたらいいか尋ねてみる。
すると、あっという間に回答が返ってきた。見事にスマートで、無駄のないようなプログラムソースだ。
それを見て、安心する自分が居た。これが正解かは分からない。けれど、行き詰まっていたところに一つの仮説を手に入れることができたからだ。
ただ、釈然とはしない。無力感が己を蝕んでいるようにも思えた。
本当は考えることが楽しいはずなのに、個人的にはエンジニアの醍醐味はこういうところにあるはずなのに、簡単に正解っぽいモノを手に入れて、易々と自分の頭で考えることを放棄してしまった。そのような思いがあるからかもしれない。
せめてもの抵抗として、私はAIが寄越してくれたソースコードは、まだきちんと読まないことにする。実際の業務で適用してみて検証するのは、もう少し自分で悩んでみてからにしようと思う。
さて、今回のことで気付いたことは二つある。
一つは、目的に追われることで手段を楽しめなくなったことだ。
私は、目的が最も大事だと思ってはいなかった。手段あっての目的達成だと考えていたからだ。だが、それは最終的に目的を達成できると自信があるケースであったり、手段を楽しむ余裕があるケースに限られると気付いた。
今回はまったく余裕が無くなってしまって、それでも何とか前に進まなければならないという場面だった。そのような時には、目的を優先してしまう自分が居ることに気付いた。これは良いか悪いか、状況にも依るが、今後自分の心の動きを注視していこうと思う。
もう一つは、AIの便利さだ。
これはもう必須なレベルのツールになってしまっているケースもあるだろうと思った。私はまだ見苦しくも抵抗したりもするけれど、仕事上これが無いと成り立たないという人も多いような気もした。これだけ一瞬であらゆる叡智のようなものを分かりやすく提供してくれるのだから。
そのことで思うのは、これを便利ツールとみなした上で、自分としてはどう付き合っていくのかスタンスを決めたいということだ。そんなことは普通やる必要もないだろうが、私は気になる。
たとえば、インターネットが登場し始めた頃。検索エンジンが世界中のありとあらゆる情報を収集して、あろうことか無料でそれらの情報にアクセスできるようになった時。
当時、私は初めて自分のパソコンを与えられてインターネットに触れたのは中学生くらいだったのでそこまで衝撃は無かったが、これがもし社会人であったら、その便利さに驚愕したことだろうと思う。自分の足で探さなくても、取引先に顔を出したり伺いの電話をしなくても、キーボードを打てば簡単に情報が手に入る。
ましてや、その当時のネットの情報なんて(今もだけど)有象無象で、確かな情報は多くなかったろうけれど、AIはその情報の精度も高いように見える。もちろんハルシネーションはある前提だけど。
でも、だからと言って、その当時のネットとか現代のAIとかに触れても、全員が全員、同じ反応を示したわけではないと思う。
人によっては、「これはすごい」と鵜呑みにしたり、「こんなの信用ならん」と完全拒絶したり。大半の人は「まあ、使えるようなら使ってやるか」という半信半疑で上手くツールとして活用するケースなのかもしれない。そういうスタンスが一番理想的だったりもするのだろう。依存し過ぎず、それでいて従来のやり方に固執もし過ぎない。
じゃあ自分はどうなんだと考える。
私は「使えるところは使う」で良いと思うし、そういうスタンスで居たい。
だが、今回のケースでもあるように、本当は「自分の頭で考える」そのことが楽しいはずなのに、それをみすみすAIに譲り渡してしまったような場面が増えていってしまうとなると、すごく、怖くなるのだ。
私は何のためにこのツールを使うのだろうと。目的が大事なのは分かるけれど、楽しみを捨ててまでそうしてしまうことに不安を覚える。いつしか魂まで無料で売り渡してしまうような気がして。
以上、そんな取り留めのない話。
何というか。あくまで手段、感情は切り離す、業務中の私は仕事遂行のためのロボット、そういう割り切りも必要なのかもしれないな、なんてことを思ったり。つづく。