テレビ事件の話。

事件が起きた。
いや、事件と呼ぶほど大したことのない話かもしれない。

単刀直入に言うと、ゲームでなかなかうまくステージクリアできずに腹を立てた小学生の息子が、リモコンをテレビに投げつけてテレビの液晶を破損させたのだ。

ちょうど私はその現場を目撃はしていなくて、入浴中の私に対して息子が謝ってきたことで発覚した。

当時、私は息子に対して不思議と頭に来なくて、「言いにくいことをきちんと謝ることができてエラかったな」くらいに思っていた。

だが、それはそれ。今回の問題は幾つかの原因があるように思う。良い機会なので文章に残して考察していきたい。

まず、息子のゲーム熱。彼はゲームに熱中すると周りが見えなくなる。それは楽しんでいる時ならまだしも、今回のように上手くいかないことがあるとプレイ中に激昂することもあった。だから、遅かれ早かれそういう事故(というか事件かなやっぱり)は起こるものだと想像していた。

また、ゲームに対する熱は置いておくとしても、もう一つの問題は、息子による感情のコントロールだ。今回のことを事故ではなく敢えて事件と表現したのは、そこに意思が介在するからだと考えているためだ。つまり、幾らゲームで腹を立てたからといって、リモコンをテレビに投げるのなんてやり過ぎだ。これは感情のコントロールに失敗した結果だと私は考えている。

それが仮に、思わずそうしてしまったとしても、「リモコンを手に取る」「テレビ画面に目的を定める」「リモコンを投げる」「テレビ画面に命中させる」ということを無意識にでもしているわけだから、完全に彼の意思でそうしていたと言わざるを得ない。たとえ反射的にそうしたのであっても、一瞬のうちに判断して幾つものステップを自分で踏んだということだ。

そして一番の問題は、ゲーム熱と感情コントロールに加えて、潜在意識の問題だ。潜在意識の中で「怒りを発散させるためならリモコンをテレビにぶつけてもいい」と思っていたはずだということだ。これが最も危険な意識だ。

じゃあ、リモコンではなくて、もっと柔らかい物なら?鉛筆ならいいのか。クッションならいいのか。タオルならいいのか。反対に、固い物は。ハンマーだったらダメなのか、椅子だったらどうか、台所にある包丁だったら。

いやいや。何であればぶつけていいのか、が問題ではない。潜在意識の中で、そういうことをしていいんだ、と考えていたであろうことが恐ろしいのだ。

大切なのは、何であったとしても、ストレスを晴らすために物を投げていいわけが無いということだ。

その壊れてしまったテレビは、実際にはまだ視聴できる。ちょっと画面の中央がひび割れして写りが欠けてしまっているだけだ。しかし、もうこのテレビは使わないことにした。電源も抜き、観られないようにした。変に破損したテレビを視聴し続けることで何かしらのリスクが生じるのも避けたいからだ。

他方で、大人気ないが、息子に対する制裁という意味もあるかもしれない。何より、テレビは彼だけものではなく、家族全体で使っているものだ。生活の中からテレビを無くすという結果を招いた。彼が潜在的にでも「壊してもいい」と軽率に扱ったテレビが無いことの退屈さを味わってほしい。

しかも、安い物ではなくすぐに修理や買い替えなんてできるはずがない。もっともお金を出そうと思えば可能だけれど、数十万円もする精密機械をすぐに直せると思ってほしくない。そして何より、一時の感情でそのような事態を招いたことの残念さを実感してほしい。

テレビという高価な物を、自分の手で家族全員の生活から奪うことが何を意味するのか。彼が今後どのように考えて生活していくのか。それを見守りたいと思った。

だが、このような中でも、私は希望は持っていたい。

まず、息子は悪いことをしたと思ってすぐに謝ることができた。恐らく、やってしまった後で、事の重大さに気づいたのだろう。これがもし、怒りのあまりリモコンを投げた環境が、家の中ではなく友達の家だったり学校であったら、器物損壊だったり傷害事件に発展しても不思議ではない。だから、まだ家でよかった。勉強代としては高すぎるが、よくよく学んでほしい。

それと、最近の息子は、学校から帰るとすぐにリビングのソファに寝そべりテレビを観始めるという生活が続いていた。寝る寸前まで数時間もそうやってダラダラとしていた。

ゲームに関しても、「自分の部屋の片付けと学校の宿題を終えてから」という最低限のルールさえ守られない日も多かった。正直言ってそれが常態化しており、目に余るものがあった。注意しても聞かなかった。

そういう意味では、今回の件で物理的にテレビが使えなくなるという事態に陥り、その生活スタイルの変更も余儀なくされる。人間らしい生活に切り替わるきっかけとなることを望む。

さて、どうなるだろう。

私も妻もそこまでテレビに固執しないし、何ならテレビなんて観なくても生活はできるのだが、子供たちはどうするのだろう。この事件によって、今後生活の中でのテレビの在り方や時間そのものの使い方について、よく考えるきっかけになってほしいと願う。

つづく。

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