素直にちいさく言葉をつぶやくこと
12月12日のNHKクローズアップ現代はグッジョブだった。震災で家族をなくした親子が「すずめの戸締まり」の感想を語る場面。父と娘で反応が微妙に異なる様子を映像で新海誠に直接見せた。彼女は若さに輝いていた。生きることそのものが希望であることを思い出させてくれるような感想を語っていた。それは映画のメッセージにも通じていたかもしれない。しかし父親はどうか。娘の感想に耳を傾けつつも「正直ありえねぇなと思った」と朴訥に語った。それに対して娘がやさしい言葉をかけていた。心が震えるようだった。この映像それ自体が一つの映画だった。
新海誠は動揺していた。しかし動揺しながらも言葉を選んで彼はなにやら語っていた。それは彼の狂気をよく表していた。これぞ表現者。芸術家。映画監督である。因果な職業だと思った。
ヤバイ人間だけが成しうる何かがある。それは分かる。だが、それはやっぱりヤバイのだと思わせる映像だった。もっと直接的にいおう。彼には繊細さが足りない。それだけの話なのだ。
わたしも今作は震災をあつかう物語としてはまったくありえないと思った。やりたいことはわかるが、ありえない。理屈ではなく、感情としてそうなる。人にはそれぞれ人生の履歴がある。じぶん一人たけの記憶を総動員して作品に対峙する。ようやく素直にいえた。
じつは、わたしは「すずめ」を2回観賞している。1回目は新海誠の狂気に打たれ、訳が分からないまま、心を動かされた。そうして間をおかず2回目を見たが、調子が悪くなって途中退席した。二日酔いのせいだけではなかった。なぜなら3回目を見る気はもうないのだから。あらためてNHKよ、正直な声を伝えてくれてありがとう。
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大きな声、大量に流通する言葉。それは世の中から繊細さを消していく。それは宿命なのかもしれない。「大きくいわないと届かないのだ」と人はいう。「つよくいわないと響かないのだ」と人はいう。だが本当にそうか。その奢りと居直りが、世の中のイタイすれ違いと痛ましい悲劇を生んでいるのではないのか。小さい言葉を流通させないといけない。小さくて、やわらかい言葉だ。それぞれの人生で、そういう言葉に出会わなくてはいけない。あるいはもう出会っていることに気付かなくてはいけない。そういう意味でnoteは好きだ。filmarks はもっと好きだ。
文脈から切り離された言葉の増幅装置のなかで生きるわたしたちに必要なのは、分析的な言葉じゃない。それはどうしたって遅い。学問の精緻な言葉を受け止めるには、余裕と時間が必要だ。ましてや、祭りの掛け声のようなキャッチコピーもいただけない。お祭りもいいけれど、祭りの持つ毒にも敏感であるべきだ(祭りにノれなかった人間の悲惨さ)。
もっと繊細で、個別的な、個人の魂にそっと触れるような、「詩的」な言葉が必要だ。
惨めさのなかから勇気を汲み上げる詩をこの社会は失った。
わたしたちは、本当は、だれもがだれかにとっての小さな詩人であることを忘れている。