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一年前の今日の日記

シン・エヴァを見た。
地元のシネコンで朝7時の回。仕事は最近時短だから映画を見た後でも間に合うだろうと思った。そのまま事務所に行ける格好だ。スーツというわけではないが、いわゆるビジネス・カジュアルな服装だ。
肩に下げたカバンが重かった。
それにしても、いつも何の書類を持ち歩いているのか、自分でもよく分からない。
重いカバンに安心感を持っているのかもしれない。この重さが、私にはこの社会でやることがあるのだと思い出させてくれる気がする。マゾ的な感覚だ。
「社畜」はひどい自虐表現だと思うけど、社会人はみんなそういう感覚がどこかにあって、半ば呆れながら働いているのではないかという私の中の仮説(偏見)がある。
だけど、それなりに気を使って、持てる力を自分なりに出そうと努力している。少しでもマシな人間、世界になったらいいと祈りながら。
なんというか、ふざけてやがる、ふざけてないけどね、でも「ふざけんな」と思っている。だから祈っている。人間は複雑だ。

雨がポツポツと降っていた。折りたたみ傘を持って行った。地元の映画館だから、電車で一駅だ。なんとなくソワソワしていた。こんな気持ちは久しぶりだった。おそらく中学生以来だ。
いまは旧劇場版と呼ばれるエヴァの映画。春と夏があって、両方とも友だちと始発の電車に乗り込んで新宿まで見に行った。みんなエヴァに熱狂していた。
前日は私の家にみんなが泊った。何人くらいいただろうか。「おれも!おれも!」と人数が膨らんでいった。記憶があいまいだ。だってもう、すごい昔のことだ。
普通のマンションのせま苦しい部屋のなかで、中学生たちが夜中に集まって何も食べずにスマホもなしに徹夜して何が楽しかったのか。あの頃、一緒に住んでいた両親と妹はよくそんな息子(兄)の所業を許してくれたな。
胸がぎゅっと苦しくなる。当時のうれしさとたのしさがよみがえってくる。
ありがとう、お父さん、お母さん、そして妹。
私は愛されていたんだなと思う。

あの頃から何もかも違ってしまった。そりゃ四半世紀も経てば、そうなる。
これからも、きっとそうだ。時の流れはすべてを変えていく。よくも悪くも。

私にとってエヴァの思い出は中学時代の楽しい青春の1ページだ。そうはっきりといえるようになるくらいには、私はあの頃から変わってきたし、普通におじさんになった。
信じられないことだが、それを誇らしく思うような気持ちもある。
おじさんになれてよかった。
だけど、もう少しマシなおじさんになるはずだったんだけどな。
…まぁそれはそれとして。
この年齢まで生きてこられたことが素直にうれしい。
そういうふうに思えることが、こんな私にもなくはないのだ。

新劇場版が始まったのが2007年だった。
とくに重要じゃないけど、一つ一つ感想をメモっておこうか。

「序」。なんの思い入れもなかった。労働の日常を慰めるために何となく足を運んだ。懐かしいけど、ただそれだけだった。

「破」。少し変わった。労働の日常を慰めるために足を運んだはずが、それ以上の強い刺激を受け取ってしまった。時間を見つけて3回見に行った。

「Q」。夢中で見に行って爆笑して帰ってきた。3回見に行った。

そして今日「シン・エヴァ」を初日の朝一で見に行った。
中学生のときを思い出した。

いまは就労時間中にこっそりこの文章を書いている。

断片的にしか書けない。

トウジが大人になって現れた。ケンスケが大人になって現れた。委員長もいた。トウジと結婚していた。みんなシンジを温かく迎えた。変わらない友だちとして。
「なんでみんなそんなに優しいんだよ」とシンジが泣いたとき、私のなかの中学生が一緒に泣いていた。

幸せだなと感じられた。幸せだったと感じられた。

映画を見ている最中に襲ってきた感情ではない。見終わった直後でもない。
思い返すたびに、さざ波のように押し寄せてきた。

どうしてこんな気持ちになっているのか。
回り道かもしれないが、思いつくままに書いてみたい(書いている)。

映画をつくることは、たいへんなことだと想像する。もっと抽象的にいうと、誰かと一緒にものを作ることは、そもそもたいへんだ。映画はその最たるものの一つだと思う。人数とお金のかかり方が違う。いったい誰がどんな役割なのか、内容はどのように決まるのか、どんなふうに資金調達して、どこから人が集まってくるのか、どんなふうにマネジメントするのか。
一つの映画が出来上がることはまるで奇跡のように思える。全体の段取りを想像するだけで途方に暮れてしまう。人間の集団能力の極致が発揮される仕事の一つだろうと思う。

おまけに本当にエヴァンゲリオンはややこしい人たちばかりで出来上がっている。
キャラクターたちだけじゃない。作り手の人々も、観客やファンたちも、みんなややこしい。ヘンだ。もはやかわいそうだ。どうしてこうなったのか。
「みんなヘン!」 と友愛の情を持って叫びたいくらいだ。

映画は、そうした思いのすべてをまとめ上げていく。すくい取っていく。
もちろん、すべての思いに応えるなんて無理だ。不可能だ。みんなややこしい人たちなんだから。
それに期待に応えることが必ずしも本当の意味で期待に応えることではなかったりする。世の中の摂理というのは、そんな逆説に満ちている。

たとえば「時間が解決する」という知恵があるが、あれもよくある逆説の一種だ。
放っておけないことを放っておくことの大事さ。じゃあどうすればいいのか―― 知らないよ、そんなことは!

できる限り足掻く。自分たちなりに力を尽くそうともがく。その姿勢。態度。誠実さ。
映画からみなぎる庵野監督の意志、人間力、リーダーシップ。
それを支える人たちの努力、愛情、こだわり、団結力。

物語の内容を逐一理解した結果、この幸せが得られたんじゃない。
映画鑑賞中に頭で考えられることには限界がある。

私は映画全体を力強く支えている何かに反応していたのだと思う。
全編をとおして、全カットをとおして、身体全体に伝わってくるものがあったのだ。
観ているときには気付かなったが、今ならばそれがあったと分かる。

見終わったあとに、べつに泣きたくないのに、泣きたくなるような気持ちに包まれた。
何を見たのだろうか、何を感じたのだろうか。言葉にしようとして、うまくいかなかった。
なぜかわからないけれど、一日経って思い返している現在が一番感動している。

この四半世紀、私たちは幸せだった。そういうことなのだ。
エヴァンゲリオンというアニメ作品に、私たちは愛されていた。
今頃になって気がついた。終わってから気がついた。

子どものころ、好きなアニメの最終回のあと、よくこんな気分になった。まさか、この年齢でそれを味わえるとは思わなかった。

さびしいけれど、別れがあるから、分かることもある。これも昔からある逆説だ。あなたが好きだった、幸せだった。でも終わった。人間はままならない。時間は戻らない。知っている。だけど。

「時間は戻らない」――何度もいわれる言葉だが、いろいろ生きてきて、必ずしもそうではないだろうとも感じている。そもそも時間とは距離のようなものではないだろうか。

「いま」と「昔」は、遠く離れているだけで、地続きでつながっている。
大好きだったあの人も、時間も、なくなっていない。遠くなっただけ。
そして、遠いからこそ、より近くに感じることもある。
そういう逆説もあると、おじさんの私は知っている。こんな逆説は、できれば知りたくなかったけれど、たぶんこの25年を生きてこられたみんなも似たようなことを感じているんじゃないか。
私も、私自身から遠く離れて、ここまで生きてきたんだなぁと思う。
もちろん、あの頃の私も、遠くなっただけで消えていない。

劇場を出て、重いカバンを持って駅のホームのベンチに座った。
袋詰のパンフを取り出したけれど、ハサミがなかった。でも今すぐ読みたかった。先が尖ったものを探した。名刺はどうか。名刺の角で何とかなるかもしれない。名刺を名刺入れから取り出した。先端で無理やり切ろうとした。

「あいかわらず気持ち悪いわね」

マイナス宇宙の誰かに親しげにこづかれた気がした。
… それくらいは、最後に書いてもいいんじゃないだろうか。

「さあ、いこう」といわれて、笑ってしまった。
あのねぇ、いわれなくても、いくぜ。遅刻しそうだからね。

さようなら、ありがとう、エヴァとともに生きてこられた私の四半世紀。


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