ヘーゲル『精神現象学』
精神現象学とは、ドイツの哲学者ヘーゲルが1807年に出版した著作で、意識から出発して、弁証法によって物自体を認識し、主観と客観が統合された絶対的精神になるまでの過程を記述したものです。精神現象学は哲学史上最も難解な名著の一つとされ、多くの哲学者に影響を与えました。
精神現象学は以下のような構成になっています。
- 序文
- 序論
- 意識
- 感性的確信
- 知覚
- 力と科学的確信
- 自己意識
- 自己確信の真理
- 自己意識の自律性と非自律性
- 自己意識の自由
- 理性
- 理性の確信と真理
- 観察する理性
- 理性的な自己意識の自己実現
- 絶対的な現実性を獲得した個人
- 精神
- 真の精神―共同体精神
- 疎外された精神―教養
- 自己を確信する精神―道徳
- 宗教
- 自然宗教
- 芸術宗教
- 啓示宗教
- 絶対知
本書の目的
本書の目的は、学としての哲学の歴史的成立を正当化することです。ヘーゲルは、意識から出発して、弁証法によって物自体を認識し、主観と客観が統合された絶対的精神になるまでの過程を記述することで、真理を実体としてだけでなく主体としても把握し表現することが重要であると主張しています。本書は、人類史における長い間の人間意識(精神)の発達を研究した作品であり、ヘーゲル哲学体系の総論ないし導入として執筆されたものです。
本書の内容
序文
本書の序文は、本書の最後に書かれましたが、出版時には最初に置かれました。ここでは、真理とは何か、哲学書における序文の役割と限界、先行研究との関係、矛盾と発展の関係などについてヘーゲルが自らの立場を表明しています。序文の中で有名な言葉として、「死を避け、荒廃から身を清く保つ生命ではなく、死に耐え、死のなかでおのれを維持する生命こそが精神の生命である。」というものがあります。これは、感性的・直観的・形式論理的な意識が自己喪失することを死と呼び、それを乗り越えてより高次の意識へと発展することを精神の生命と呼ぶことを示しています。
序論
本書の序論は、ヘーゲルが自らの哲学的方法と目的を詳細に説明した部分です。ヘーゲルは、精神現象学とは、「意識の経験の学」であると定義し、意識が自然的意識から絶対的意識へと発展する過程を記述することを目指します。ヘーゲルは、この過程を「弁証法」という方法で展開し、対立する概念や現象が相互に影響しながらより高次の統合へと進むことを示します。ヘーゲルは、この弁証法を用いて、「精神」という概念を導入し、精神が自己と他者、自己と世界、自己と神などの関係を通して自己認識を深めていくことを論じます。
意識
本書の意識の章は、意識が自然的意識から自己意識へと発展する過程を記述した部分です。意識は、「感覚的確信」、「知覚」、「力と科学的確信」の三つの段階を経て、自己意識に到達します。感覚的確信では、意識は個々の感覚的な対象に対して確信を持ちますが、その対象が普遍的なものであることに気づきません。知覚では、意識は対象を普遍的な性質や関係によって認識しますが、その対象が変化することに気づきません。力と科学的確信では、意識は対象を力として認識し、その力が現れたり隠れたりすることに気づきますが、その力が自己と他者の関係に依存することに気づきません。このようにして、意識は自己と対象との間に不一致や矛盾を発見し、それを解消するために自己意識へと移行します。
自己意識
本書の自己意識の章は、意識が自己と他者との関係において自己確信を求める過程を記述した部分です。自己意識は、「欲望」、「主君と奴隷」、「道徳的意識」の三つの段階を経て、理性に到達します。欲望では、自己意識は自然的な対象を消費することで自己を確立しようとしますが、その対象が自己と同質な自己意識であることに気づきません。主君と奴隷では、自己意識は他の自己意識と闘争することで自己を確立しようとしますが、その闘争が生死をかけたものであることに気づきません。道徳的意識では、自己意識は普遍的な掟に従うことで自己を確立しようとしますが、その掟が個別的な状況に適用されることに気づきません。このようにして、自己意識は自己と他者との間に不一致や矛盾を発見し、それを解消するために理性へと移行します。
理性
本書の理性の章は、自己意識が自己と他者との関係において普遍的な掟に従うことで自己を確立しようとする過程を記述した部分です。理性は、「物の世界のすべてに行き渡っているという意識の確信」であり、「観念論」の立場をとります。理性は、「観察する理性」、「理性的な自己意識の自己実現」、「絶対的な現実性を獲得した個人」の三つの段階を経て、精神に到達します。観察する理性では、理性は自然や自己意識や身体を対象として観察し、その法則や構造を把握しようとしますが、その観察が主観的な見方に依存していることに気づきません。理性的な自己意識の自己実現では、理性は快楽や必然性や心の掟やうぬぼれや徳性や世のならいなどの個別的な状況において自分を実現しようとしますが、その実現が不完全であることに気づきません。絶対的な現実性を獲得した個人では、理性は精神の動物王国やだましや理性による掟や吟味などの普遍的な状況において自分を実現しようとしますが、その実現が絶対的なものではないことに気づきません。このようにして、理性は物の世界や人間社会における自分の位置や役割を発見し、それを超克するために精神へと移行します。
精神
本書の精神の章は、理性が自己と他者との関係において普遍的な掟を超えて自己を確立しようとする過程を記述した部分です。精神は、「人間社会における自己意識の実現」であり、「客観的精神」と「絶対的精神」の二つの段階を経て、絶対知に到達します。客観的精神では、精神は法や道徳や国家などの共同体において自分を実現しようとしますが、その実現が疎外や対立や暴力を伴うことに気づきません。絶対的精神では、精神は芸術や宗教や哲学などの形式において自分を実現しようとしますが、その実現が絶対的なものではないことに気づきません。このようにして、精神は人間社会における自分の位置や役割を発見し、それを超克するために絶対知へと移行します。
宗教
本書の宗教の章は、精神が自己を実現するために用いる形式の一つとして宗教を考察した部分です。宗教は、精神が自分と対立するものとして認識する絶対的なものに対して、自分を同一化しようとする運動です。宗教は、「自然宗教」、「芸術宗教」、「啓示宗教」の三つの段階を経て発展します。自然宗教では、精神は自然の中にある光や植物や動物や職人などに神性を見出し、それらに崇拝しますが、その神性はまだ具体的で分裂的です。芸術宗教では、精神は芸術作品を通して自分の内面を表現し、それに神性を見出しますが、その神性はまだ感覚的で限定的です。啓示宗教では、精神はキリスト教のように絶対的なものが人間として現れたことを信じ、それに神性を見出しますが、その神性はまだ表象的で矛盾的です。このようにして、精神は宗教において自分と絶対的なものとの関係を探求し、それを超克するために絶対知へと移行します。
絶対知
本書の絶対知の章は、本書の最終章であり、精神が自己と絶対的なものとの同一性を完全に認識する段階です。絶対知は、全てを知り尽くした神の視点ではなく、相互承認によって対立を調停し、問い直し、開かれた知へと進むプロセスです。絶対知は、精神が自分自身を対象化し、その対象化されたものを自分自身として受け入れることによって成立します。絶対知は、理性や精神や宗教がそれぞれ独立した形式ではなく、互いに関連し、発展し、補完しあうことを示します。絶対知は、本書の目的である「精神の現象学」すなわち「精神が自分自身をどのように認識するか」という問いに答えることです。絶対知は、本書の始まりである意識から始まり、本書の終わりである絶対知に至るまでの精神の発展を総括することです。
哲学史上の位置付け
本書の哲学史上の位置付けは、ドイツ観念論を代表する哲学者であるヘーゲルの最初の著作であり、その哲学体系の総論ないし導入として執筆されたものです。本書は、人類史における長い間の人間意識(精神)の発達を研究した作品であり、ヘーゲル独自の弁証法を用いて、意識から出発して絶対的な知識に至るまでの過程を段階的に記述しました。本書は非常に難解であり、多くの哲学者に影響を与えたとともに、多くの批判や解釈も生み出しました。
参考文献
ヘーゲルの『精神現象学』の訳書を一冊ずつ紹介します。
- 熊野純彦訳『精神現象学』(筑摩書房):この訳書は、ヘーゲルの原文を忠実に訳しながらも、日本語として読みやすくするために工夫されています。 訳語や文章構造が明快で、原語や訳注も付いているので、原文との対応も確認できます。 一般の人がヘーゲルの思想に触れるには最適な訳書です 。
-樫山欽四郎訳『精神現象学』(平凡社):この訳書は、ヘーゲルの原文をそのまま日本語に移し替えたもので、ヘーゲルの言葉遣いや文体を忠実に再現しています。 しかし、その分読みにくく難解な部分も多く、初心者には向かないかもしれません。 原文との対照が必要な場合や、ヘーゲルの言語感覚を味わいたい場合には有用な訳書です 。
- 牧野紀之訳『精神現象学 第二版』(未知谷):この訳書は、ヘーゲルの原文を日本語に翻訳する際に、哲学的な意味や論理的な構造を重視しています。 訳語や文章構造が統一されており、原文との対応も明示されています。 また、訳者自身がヘーゲル研究者であることから、豊富な訳注や解説が付いており、ヘーゲルの思想を深く理解するのに役立ちます 。
- 金子武蔵訳『精神の現象学』(岩波書店):この訳書は、ヘーゲルの原文を日本語に翻訳する際に、文学的な魅力や詩的な表現を重視しています。 訳語や文章構造が独自であり、原文との対応は必ずしも明示されていません。 しかし、その分読み味が豊かであり、ヘーゲルの思想を感性的に捉えることができます 。
- 長谷川宏訳『精神現象学』(作品社):この訳書は、ヘーゲルの原文を日本語に翻訳する際に、現代思想や社会科学との関連性を重視しています。 訳語や文章構造がわかりやすく工夫されており、原文との対応も示されています。 また、多くの図表や索引が付いており、ヘーゲルの思想を体系的に把握することができます。
また、以下の解説書も役に立ちます。
- 竹田青嗣・西研『完全解読 ヘーゲル『精神現象学』』(講談社選書メチエ):ヘーゲルの原文を忠実に訳しながらも、平易かつ明快な言葉で解説しています。 原典の訳文に忠実に、その上でより平易に、わかりやすくというのが本書の特色です。
- 加藤尚武『ヘーゲル「精神現象学」入門』(有斐閣選書):ヘーゲルの思想を現代的な視点から読み解くことを目指しています。 ヘーゲルの思想は、近代社会における人間の自由や倫理、政治、芸術などの問題に対する答えを提示しているという視点から、その意義や影響を考察しています。
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