東京の価値観でしかないけれど

お盆休みということもあり、茨城にある実家に帰った。

思えば、大学に通うために東京に出てきて、ずいぶん価値観を入れ替えてきたように思う。それが、思考が進歩したということなのか、学をつけたということなのか、思春期を脱したということなのか、場所が変わったことによるものなのか、それはまだ未分化なのだが、でも、「東京」という街にいると、価値観を変えられてしまう。

東京に住み始めてから、東京にもともと住んでいる人たちがどれだけ多くのものを持っているか、ということを、どれだけ恨んだだろうか。

例えば、中学進学にあたっても、中学入試が一般的になっている。高校の選択肢も無限にある。そして、おびただしい数の大学があり、そこには日本トップクラスの大学のほとんどが含まれており、入学する力さえあれば、自らの意思で選択できる。

地元には中学入試できるような学校は限られていたし、進学するメリットもそこまで大きくない。高校さえもほとんど選択肢がない。大学に進学するにも、そもそも県内には大学がほとんどなく、そして私立の選択肢も少なく、大学に進学するには茨城を出るしかない。茨城を出るのであれば、一人暮らしをすることになり、その費用を考えると、東京の私立大学はかなり厳しくなってくる。そのため、地方国公立大学を目指すことになる。

今の時代、選択肢は無限大なのだろうか。願ったものには、誰でもなれるのだろうか。いいえ、選択肢ははじめから見えないので、自分で選択したような気になるし、願うことができるのも、想像の範囲を出ない。自由に選択などしていない。選ばされているだけだ。

しかし、ここまで書いてきた「選択肢」とか「自由」とか、そういった価値観こそが「東京」に限られた価値観なのだろう。東京という狭い範囲のことを見たうえで(地理的にも、茨城よりもはるかに小さい街で)、「広くてずるい」とか思ってしまっている。これはあくまで限られた地域の価値観にすぎない。

では、茨城の中でおとなしく暮らしていればよかったのか?

久しぶりに降り立った地元の空気は、いつでも誰かと肩がぶつかりそうな東京とは違って、誰にも邪魔されないようだった。風が通り抜けるための道がある。そういう意味では余裕がある。静寂。東京にはないもの。

茨城で暮らすのも良いな、と思ったのだが、東京で暮らす私の、何も持っていない自分を恨む気持ちがよみがえってきた。東京で、何とか、自分を自由にしてきたはずなのに。

茨城は茨城の価値観でやっていけばよいじゃないか、とも思う。しかし問題なのは、東京的価値観がすでによしとされている社会で、それでもなお茨城に「魅力」を感じろというのは、もはや東京的価値観だということだ。たまには都会を逃れて、地方でのびのびと過ごすのも良いよね、という観光客とまったく同じだ。そこにはまぎれもなく人が住んでおり、人生があるというのに。

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