天国と地獄

大学3年の秋、オーケストラサークルで長年指揮者を務めた先生が亡くなった。

教育実習1週目が終わった日に、奥様から「ありがとうございました」という件名のメールが届いた。当時オーケストラの団長であった私は、急いで幹部に連絡し、ひとまずは葬式に向けての準備をした。

親戚以外の葬式に出るのは初めてだ。それに、現役団員代表として、手紙を書いて読むことになっている。席順もだいぶ前だった。

団から花を出すことになった。葬儀場は24時間電話を掛けられるらしい。協力してくれたトレーナーの先生に聞いた電話番号に、朝3時ながらおそるおそる掛けてみる。

「何ですか」明らかに不機嫌そうな男性の声。
「花を出したいのですが」
「うち、寺ですけど」
間違ってお寺に電話してしまった。最悪だ。
改めて葬儀場に電話するとすんなりと受けてくれた。そうか、人は死ぬ時間を選ばないものな。

スーツはあるから、葬式用の鞄が必要だ。通夜への行きがけの道で葬祭用の鞄を買ったら、店員さんに「白いシャツはほんとはだめなんですよ」と言われた。教えてくれてありがたかったが、正直それどころではなかったので少しむっとした。

通夜の翌日、告別式が行われた。奥様が、焼香の時間に私たちの演奏を流したいと言ってくださったので、5月の定期演奏会の録音を持って行った。

5月の演奏会はオール・ドヴォルザークのプログラムで、メイン曲の交響曲第8番を流してもらった。もの悲しさというよりは郷愁のあるメロディーで始まる。しかし基本的にはやや軽快な響きをしている。4楽章はちょっと笑ってしまうくらい明るいのだけれど、それでもこの葬式にはよかったと思う。会場には、大勢のOBが駆け付けた。「若々しくてよい演奏ですね」とみなさん褒めてくださった。

現役団員は、私を含めて幹部の4人が来ていた。この4人だけは気づいていたことがある。

ドヴォルザークの8番は、交響曲の中ではあまり長くないほうだ。3~40分くらいで終わってしまう。

では、終わってしまったらどうなるのか? アンコールは「天国と地獄」だった。

もし、焼香が終わらずに、アンコールが流れてしまったらどうしよう。この思いを4人がそれぞれに持っていた。4楽章に入った時点で、まだ焼香の列は途切れない。頼む、早く終わってくれ……。

思いが届いたのか、4楽章の最後ピッタリで焼香は終わった。安心した。帰りに4人で蕎麦屋で遅めの昼食をとったが、全員が「天国と地獄」を危惧していた。そういえば、先生が最後に指揮したのは「天国と地獄」なのか。

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