「地域社会圏」は”パリピ”の集い?
「パリピの考え方だね」
山本理顕+仲俊治『脱住宅』を読み、夫(建築とは関係ない仕事をしているが、同じ藝大出身)にその概要を話した。
ちょっと端折りすぎかもしれないが、こんなふうに説明した。すると返ってきたのは、
という反応だった。
「パリピ」。言い得て妙である。
ずっと建築の設計をしている私でも、この本に書かれている暮らし方に若干の気恥ずかしさやためらいを覚えてしまう。確かに自分はできる、でも、誰もができる暮らしなのだろうか。そう疑ってしまう。
夫は、話を聞いて瞬時に「誰もができる暮らしではない」と判断し、「パリピ」という一言に集約したのだろう。
さらに「自分は無理だ」と即答した。
時短家電の効率の悪さと「地域社会圏」
本書に書かれている集合住宅のあり方について、私自身は好意的に捉えた。「街や社会を良くするから」というメリット以前に、「このような暮らしをしてみたい」と素直に感じられたからだ。
例えば以下のような暮らしだ。
玄関ドアを透明なガラスで作り、外から見えるようなスペースを作る。
共有通路側の部屋をオープンにする。
プライベートな空間(寝室など)は最小面積にとどめる。
共有の畑を、管理会社ではなく住民同士の善意で管理する。
食事や風呂などを共用空間で済ませる。
etc.
一人好きな性格ではあるが、このように暮らしの一部を共有することには抵抗がなく、むしろ楽しそうだと思う。
また、それだけでなく、現代の住宅のようにな完全に閉じた箱は住宅として非効率だとも感じる。
・・・
夫婦共働きで、通勤があり、それぞれの両親(祖父母)は遠方に住んでいて支援を期待できない──という私たちのような暮らしだと、日々の暮らしを成り立たせるために時短家電に頼らざるをえなくなっている。
わが家では昨年、食洗機、炊飯器、除湿機を新調した。他に購入を検討しているのがロボット掃除機、ホットクック(自動調理鍋)、コーヒーメーカー、ドラム式洗濯乾燥機……。
かつての日本では、女性が専業主婦になることが多かった。専業主婦の仕事は「一人で複数の家事(料理、掃除、洗濯など+子育て)をこなす」という凄く大変なものだ。
共働き世帯が増え、その役割をロボットに任せようとした。結果として、大量の単機能ロボットつまり時短家電を「雇う」状態になっている。
これだけたくさんの家電が昼夜を問わずフル稼働しているさまは、非常に効率が悪いだろう、と感じる。家電は各家庭に一つずつ設置しなければ効果がない。なぜなら住宅が閉じられているからだ。
すべての家庭で同時に食洗機やロボット掃除機が動き出すという絵面は、1960年代のシニカルな映画に出てきそうだ。
・・・
仮に、今住んでいる集合住宅に食堂があって食事はすべて作ってもらえたら?ランドリーで洗濯を頼めたら?ハウスクリーニングをしてくれる人がいたら……?これが「地域社会圏」の考え方の一部である。
つまり、
専業主婦:多機能をある程度こなす/一家に一人
時短家電:単機能をある程度こなす/一家に一台(×複数機能)
食堂やランドリー:単機能をしっかり極める/地域で共有(×複数機能)
(建築をやっている人にとっては)当たり前の話かもしれないが、あらためて整理するとこうなる。
閉じた箱は作られた理想だろうか?
「だったら地域のコミュニティ内で役割を分担したほうが効率がよく、楽しいんじゃないか」。論理展開としては自然である。
──が、ここで冒頭の発言に戻る。
・・・
山本理顕氏の主張はこうである。
つまり、国の政策によって「プライバシーを守る箱としての住宅」が一般的になってしまい、その結果私たちは「プライバシー万歳」「地域社会?なにそれ美味しいの?」という思考になってしまった──ざっくりとはそういう話だった。
ここに疑問を覚えた。否定するつもりはないが、慎重に考えたい。本当にそうだろうか?私たちが当たり前のように求める理想が、生物としての本能ではなく、作られた理想と言い切ってよいだろうか?
・・・
人間には生まれもった気質があるという。
ワイワイ騒ぐのが好きな人、一人でこもるのが好きな人、時によって集まったり離れたりしたい人。生まれた時点ですでにその差は大きいという事実を、子育てをして初めて知った。
「すべての人が閉じた箱を好むわけではない」は真だろう。
しかし、だからといって「すべての人が開いた箱を好む」が真というわけでもない。
建築家は、開いた箱が好きな人、閉じた箱が好きな人、と分け、それぞれに適した住宅を設計するのだろうか?
地域社会はその時、どのような形で存在しうるのか。
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