『窓と建築をめぐる50のはなし』から考えた3つのこと
前回のエントリーで書いた「窓展」に行った際に、ミュージアムショップで買った本。
YKK ap(サッシメーカー)が主催している「窓研究所」が編集に関わっているほか、複数の建築家も寄稿している。窓に関する現実的な話(性能や工法など)と、風土・歴史・社会・芸術といった視点でみる窓の話の、両方が楽しめる。
なかでも個人的に興味深かった話題を3つ、ピックアップしてみます。
窓辺での通話
「窓学アーカイヴ3|五十嵐太郎・窓の歴史と表象文化」
において、19世紀ロマン主義の絵画には「女性が窓辺から外を眺める/窓辺で手紙を読む」という構図が多い、と書かれていた。
手紙は外の世界からやってくる通信であることが象徴的に描かれていると思います。最近の映画でみかける、窓辺で携帯電話をかけるシーンはこうした絵の系譜といえそうです。
なるほど、たしかに!携帯電話は場所に縛られないはずなのに、なぜだか窓辺で会話するシーンは多い。
すこし時代の流れを辿ってみよう。
19世紀。まだ電話が一般的でなかった時代。窓辺は、どちらかといえば「明るさ」という現実的な事情で、手紙を書くのに適した場所だった。その様子は絵画で知ることができる。
20世紀。電話という連絡手段ができてからは、固定電話の置かれた場所に縛られて会話をするようになった。日本の民家だと、一般的には居間の一角や玄関周辺に電話があった。当時の映画や漫画には、こうした固定電話で会話するシーンがよく描かれている。
と同時に、公衆電話の存在があった。電話ボックスという匿名性の高い小さな箱は「家族には知られたくない会話」という印象を人々に与えた。
そして21世紀を迎える直前に登場した携帯電話によって、場所に縛られない会話が可能になった。
……にも関わらず、あえて窓辺で会話をした経験がある人は多いだろう。おそらくその要因は、大きく二つある。
一つは、物理的に電波が弱かった頃、窓辺でないと音声が聞き取れなかったこと。今となってはこの事情は減っているはずだが、習慣化しているかもしれない。
もう一つは、外の世界と交信するという心理、または周囲に聞き取られたくないという心理が、無意識に私たちの身体を窓辺に運んでいくということ。
実際に窓辺、つまり部屋の隅で会話をすると、周囲の人に聞き取られにくいかもしれない。しかし、頭で考えるのではなく「なんとなく外に通じている窓の近くで話す」という心理もありそうだ。これは私にとって初めて意識する現象だった。
通り抜けの窓とフレンチ・ウインドウ
「異世界をつなぐ通り抜けの窓」
として、クロアチア・ドブロブニクにある「ニーサイド・ウインドウ」が紹介されている。ショーウインドウの半分が腰窓、半分がガラスのはまったドア(框戸)になっており、そこから通り抜けできる──というものだ。
窓からの出入りについて。
日本では、掃き出し窓を通じて庭へ出入りすることが多い。
私は実家にいた頃、祖母と同居していた(つまり二世帯住宅だった)。玄関は共用だ。祖母の部屋は家の中でも一番奥まった所にあったので、いちいち「玄関 →(私たち家族の)居住空間 →自分の部屋」と通り抜けるのが面倒になってしまったらしく、次第に祖母は、自室の縁側にある掃き出し窓から出入りするようになった。どことなく「正しくない出入り」という感覚はあるものの、日本の家庭事情としては珍しくないだろう。
海外に縁側という存在はないが、海外の古典ミステリーを読むと、フレンチ・ウインドウからの出入りは一般的に行われるようだ。アガサ・クリスティの処女作『スタイルズ荘の怪事件』にはこんなシーンがある。
フランス窓がさらに大きく開かれて、白髪の、気位の高そうなきれいな老婦人が、芝生に出てきた。そのあとから、男がへりくだった態度でついてきた。
この「老婦人」というのは「スタイルズ荘」の主であるエミリー・イングルソープ。そういう位の高い人が堂々とフランス窓(=フレンチ・ウインドウ)から出入りしても、特に問題はないらしい。日本の掃き出し窓(引違い窓)と同じ感覚か?
ミステリーではしばしば、いやほぼ毎回と言ってもいいぐらい、窓が物語のキーになる。中でもフレンチ・ウインドウは上記のように「出入りしても問題ない窓」であり、他の窓のように「出入りを目撃されると怪しい窓」ではない。かといって、出入りを前提としたドアとも少し違う。その性質が、犯罪において重要な役割を果たすことがある。
この話は以下の「パノラマ的知覚」に続く。
パノラマ的知覚
「窓学コラム3|浜日出夫・メディアとしての窓―なぜ窓越しに眺めることは楽しいのか」
の中では、
窓が人間と対象の間に入ることによって作り出される知覚を「パノラマ的知覚」と呼ぶことができます。
として、
身体ごと通過する/内と外を双方向的につなぐ「扉」と
視線だけ通過する/(基本的には)内から外を一方的に眺める「窓」
の違いを説明している。
そして「同じ場所にいても、窓越しに見ているか、それとも窓がない状態で見ているか、によって見え方が違う」と、パノラマ的知覚について説明される。確かにその通りだ。
ここで二点、感じたことがある。
まず一点。上記のことは「窓」というよりむしろ「壁」の存在によるものではないか、と思う。もちろん、穴があいていなければ向こう側が見えないから、そういう意味で「窓」がない「壁」には意味がない。しかし「壁」がなければ「窓」も生まれようがない。
鶏が先か、卵が先か……という話になってしまうのだが、要するに「窓」と「壁」はセットなのだと思う。
そして二点目。「窓」は「身体が通過できず視線だけ通過する」という定義だが、だとすると、通過できてしまうフレンチ・ウインドウや縁側の掃き出し窓はどうなるのだろう?
「フレンチ・ウインドウも閉じれば通過できない窓になる」と言われるかもしれない。だとすれば、この本に登場したバワの建築のように、壁に穴が穿たれているだけの開口部(常に身体が通過できる窓)は「パノラマ的知覚」を生まないのか?
この本では「パノラマ的知覚」の例として、カフェで通行人を眺める、という状況が挙げられていた。
しかしそもそも「窓」と「壁」という存在が必要なのだろうか。テラス席に座っているだけでも、見えない窓、見えない壁が心理的に生まれる気がする。それは「パノラマ的知覚」とは違うのか……?
決していちゃもんをつけたいのではなく、単純に疑問が生じた。
ル・コルビュジエは著書『小さな家』において、中庭の開口部に関して以下のように語った。これは「パノラマ的知覚」とほぼ同じ話だろう。
四方八方に蔓延する景色というものは圧倒的で、焦点をかき、長い間にはかえって退屈なものになってしまう。このような状況では、もはや“私たち”は風景を“眺める”ことができないのではなかろうか。景色を望むには、むしろそれを限定しなければならない。思い切った判断によって選別しなければならないのだ。
ー ル・コルビュジエ『小さな家─1923』22ページ
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以上、結論が出たわけではありませんが、窓というのはなかなかに哲学的なテーマだなと思いました。
(トップの写真はメキシコのTaxcoという街にて撮影したものです)
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