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学校の英語教育がよく批判されるけど、実は国語教育もダメダメだという話
義務教育を中心とした公立小中学校における英語教育の批判は以前から良く聞かれる。実際、学校における英語教育は擁護できないレベルのひどさであることは否定できない。
ところで、あまり指摘されないが学校において英語教育と同じくらいにダメなものがもう一つある。それが『国語教育』である。
突然だが、皆さんは学校の国語の授業が役に立った経験はあるだろうか?
筆者自身の経験からすると、小学校の国語の授業における、漢字学習だけは役に立ったと感じているが、それを除けば役に立つと感じられた経験がほとんどないのである。
やたらと登場人物の気持ちばかりを問われたり、教科書の短い文章を読み進めるのに何回も授業があって退屈したり、時にはきれいごと満載の読書感想文を書かされたりと、嫌な記憶はたくさんあるにも関わらず、である。
一方で数学や理科や社会といった科目であれば、塾や予備校の授業ほどではないにせよ、まあ役には立ったかという感覚も多少はある。
とすれば、やはり国語教育に大きな問題があるということは否定できないのではないか。
自国語の教育、すなわち国語の教育すら上手くできないのだから、外国語である英語の教育など上手くできるはずもないというのが道理である。
国語教育の問題点
役に立たない国語教育
国語教育についての問題点は以前からたびたび提起されているが、おおむね以下の通りとなる。
1 長時間かけても文章を理解できるようにならない
2 論理的な文章が書けるようにならない
3 スピーチやディスカッションができるようにならない
4 国語や本が好きにならない
5 クリティカルリーディングができるようにならない
6 課題を解決できるディスカッションの力が育たない
7 ほかの教科の役に立たない
8 社会に出たときに必要な国語の力が育たない
これらの点については筆者も学生時代の経験と照らし合わせて全面的に同意するところである。特に自分が痛感するのがこの2点である。
2 論理的な文章が書けるようにならない
3 スピーチやディスカッションができるようにならない
自身の経験を振り返ってみると、国語の授業ではやたらと感想文を書くことを求められる割には、授業中に論理的な文章を書く練習だとかスピーチ・ディスカッションを行った記憶がないのである。
どうすればより論理的な文章になるかとか、どのように接続詞を選ぶべきかとか、どうすれば文章として読みやすくなるかとか、そういった具体的な文章の書き方に関する指南を受けたことがほとんどない。
恥ずかしながら、今自身が書いているこの文章もまったくの我流と言って差し支えない。
日本の国語教育は失敗している
自分に言わせると、日本の国語教育とくに現代文に関する教育とは小学校期の漢字練習を除いて、おおむね国語の教科書に書かれた内容の上っ面をなぞるだけの代物である。
そもそも授業を通して子どものどういった国語力を伸ばしたいのかが客観的に全く見えてこない。
従来型の国語の授業内容は極端に文学に偏重しており、論理よりも登場人物の心情といった情緒面が優先される。子どものリーディング・ライティング能力向上のための戦略的なアプローチが完全に欠如している。またスピーチといった話す能力を養うことは初めから授業範囲外かのような扱い方がされている。これらは明らかに国語教育の失敗である。
国語の授業なのに、自国語たる日本語をよりよく扱うためのトレーニングの時間がほとんどないのでは授業としてやる意味がない。
教科書をだらだら読んでは、時々思い出したように子どもに登場人物の気持ちを聞いてみたところで教育上の効果などない。
一見すると国語と道徳の授業内容の見分けがほとんどつかないことは決して偶然ではないのである。
実際に、最近これまでの国語教育が失敗であったことを認めるかのように論理国語・文学国語とを分けて扱う流れが生まれてきている。
古典(古文・漢文)教育について
根強い古典不要論
古文・漢文といった古典も、以前から長らく『やる意味がない』とよく指摘されている大変評判の悪い分野である。
また、古典に対する謎のエクストリーム擁護がX(Twitter)上で流れて擁護派と不要派の間で論争になるのもおなじみの光景である。
やりたい人が古文・漢文をやる分には構わないのだが、多くの生徒たちに学習を強制する必要はないだろうというのが筆者の意見である。第一、大学の入試問題にやたらと出すほどの価値がある分野とも思えない。
事実、以前と比べれば有名私大の文系学部でも古文・漢文を国語入試の範囲外とする事例が増えてきている。
知識とは本当に必要になってから学ぶのでも遅くはないし、古文・漢文に興味をもったら嫌でも勉強することになるのだから、学校の生徒全員に無理強いしてやらせるほどのものでもない。
ましてその知識が人生に役立つ可能性は多くの人たちにとって限りなくゼロに近いのだからなおさらだ。
古典(漢籍)中心だったかつての教育
しかしながら、かつての日本では古典の知識が必要だった時期もある。
というのは明治維新以前の江戸時代期の高等教育の内容が、漢学すなわち中国古典(漢籍)の読解に偏っていたからである。漢籍を読み解けることが教養の高さを表した時代もあったのである。
このあたりの事情はラテン語やギリシャ語の古典教育が重視されていた昔の欧州とも類似している。
ただし、江戸時代の当時でさえ漢学中心の古典学習が実用的でないという指摘が数多くなされていたことに注意しておきたい。
当時の実践的な学問としては蘭学が人気を博しており、日本の進歩的な教養人たちがこぞって蘭学を学び、オランダ語を通して西洋文化はもとより医学、科学技術、政治経済の実用的な知識を得ていたのである。
かの有名な福澤諭吉も、勉強が得意で地元の漢学者の塾に通い数多くの漢籍に親しんだ時期もあったようだが、青年期に入ってからは蘭学の分野に転じている。
大阪で蘭学塾として著名だった適塾に入り、成績優秀であったため塾頭にも選ばれるほどだった(※のちに語学力を買われて幕府の外務方となり、最終的にはオランダ語を捨てて英語に転向することになる)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A9%E5%A1%BE
福澤自身が「学問のすゝめ」において、現代の古典不要派と同様の議論を展開しており、これからの時代は実学が重要であり実用性のない古典などは後回しにすべきとも述べている。
その理由としては古典は内容は著された時代があまりに古く、内容が時代に即しておらず実用性がないばかりか、西洋列強国と伍するうえで日本の近代化にも役立たないと考えていたことによる。
他にも、漢学の流れを汲む清が英国とのアヘン戦争に敗戦したこと、日本国内の漢学者たちが自立心がなく官職にこだわる様子や、世界情勢に疎くて攘夷論に傾斜するなど狭量で頑迷なさまを見て、福澤が日頃からよく思っていなかったという事情もあったようだ。
個人的には福澤の意見に賛同するところだし、古文・漢文を完全廃止まではしないとしても選択科目化は検討の価値があるのではないだろうか。
国語教育をどう変えるべきか
国語教育を改善するにあたり、何をすべきなのか提案するとすれば以下の通りとなる。
やめるべきこと
読書感想文を書かせるのをやめる
物語の人物の心情を聞くことを減らす
文学偏重のカリキュラムをやめる(論理文の比重UP)
古文・漢文を選択授業化する
国語教科書の位置づけを副教材 or 任意教材の扱いとする
教科書は授業中にダラダラ読ませるのではなくて、各自の興味に基づいていくつかの指定部分から事前に読んでもらうようにする
やるべきこと
授業中の漢字・熟語の学習時間を増やす (特に中学・高校)
漢字テストの実施、漢検の受験を推奨する
新聞記事や雑誌記事を国語用の教材として積極的に活用する
わかりやすい文章の作り方、話し方についてのトピックを授業中に扱う
論理的な文章を書くライティングの時間を設ける (教員による添削指導もセット)
物語中に登場する人物の行動についてクリティカルリーディングや討論の時間を増やす
各自のペースで好きな本を読んでもらい、あらすじとして1~2ページでまとめてもらう (感想文ではない)
日本の国語教育の最大のガンは、極端に情緒面重視、文学重視の授業のやり方にあることは間違いないのでこれらを片っ端からなくし、さらに読書嫌いを増やしかねない読書感想文を廃止する。
そして何より漢字・熟語の学習時間を増やすことである。十分な語彙がなければ日本語をよりよく扱えるようには絶対ならないからだ。漢字熟語の知識は学校を卒業したあとの日常生活で文章を読む上で必ず役に立つ。
週1日は漢字熟語だけを学習する授業の時間をつくり、意識的に語彙を増やしてもらう機会をつくる。必要ならば漢字テストも実施する。また、漢検受験を推奨しインセンティブとして漢検合格者には成績上の加点も与える。
国語の教科書は教材としては字数が少なすぎ、また掲載作品が文学分野に偏りすぎていて普遍的な国語力を養成する教材としては明らかに不適である。
教科書ばかりを使うよりは社会で一般的なニュースを扱った新聞記事や雑誌記事を取り上げて授業に活用するのがよいだろう。
他にも子どもがわかりやすい文章、論理的な文章をかけるようにするためライティングのための時間も設ける。当然ながら教員側がそれらに添削を入れることが前提だ。
これらの提案を見て読者がどう思うかはわからないが、少なくとも現行の国語の授業よりは遥かにマシそうだと感じてもらえるのではないだろうか。