あの頃の恋/彼の視点[短編小説]
気がついたら、彼女を抱きしめていた。
自分のものとは思えないうわずった声が、彼女の名前を呼び続ける。
「さきちゃん・・・さきちゃん・・・さき!」
確かに、その夜はだいぶ飲んでいたが、酒のせいでだけではないのはよくわかっていた。抑えようがない衝動は、もうずっと、彼女を見るたびに感じていたのだから。
突然の抱擁に少し身体をこわばらせている彼女を、さらに力強く抱きしめる。
それもそのはずだ。さっきまで、俺の口から語られていたのは、彼女の友人への片想いの告白だったんだから。
自分でもなぜそんな話をしてしまったのか、今となっては説明のしようがない。2人きりになると暴走しそうな自分を押しとどめるためなのか、彼女に俺を好きになるなという牽制のためなのか。
それなのに、最後にはこのざまだ。なんと言うていたらく。
とまどいながらも、彼女の腕がそろそろと俺の背中に回される。背骨に手のひらが触れた瞬間、俺の中心に衝撃が走る。彼女が俺を受け入れてくれるかもしれない、という淡い期待。しかし、その儚い望みも、彼女の次のセリフに見事なまでに打ち砕かれる。
「田辺さん、だい、じょう、ぶ、ですか」
一言一言を区切るように、彼女はゆっくりと言葉を紡ぎ出す。その瞬間、魔法が解けたかのように、腕の力が抜ける。
急に束縛を解かれた彼女の身体が、ゆらりと不自然に揺れたのを、慌てて支える。
「・・・ごめん」
反射的に出てしまった謝罪の言葉に、我ながら最低だな、と呆れ返る。
全く、なんて無神経な一言だろうか。これではまるで、片想いの肩代わりをさせたことにたいする謝罪のセリフみたいだ。
案の定、彼女は俺の目を見ようとせず、声だけはいつもの明るい調子でおどけたように言う。
「お酒、飲み過ぎですよ、田辺さん。それに、こんなこと軽々しくしちゃだめですよ。もし、私が田辺さんに恋していたら、勘違いするじゃないですか」
傷つけたかもしれない。でも、彼女のいつもと変わらない声色に少し救われたのも事実だった。
「駅まで送っていくよ」
そう言う俺の申し出に、私も少し酔いをさましたいから、大丈夫です、と彼女はいつもの笑顔で軽やかに言った。
その笑顔が少しぎこちなくて、何かを隠すように仮面をつけているような気がしたのは、俺の願望だろうか。
彼女の吐き出す息が白い。透き通るような白い肌が、11月の少し冷たい風のせいか、ほのかに赤く染まっている。
俺はまた、この狂おしい思いをしばらくは自分の胸に閉じ込めておかねばならないのか。自分で撒いた種とはいえ、今更ながら彼女への思いが溢れ出し、もう一度抱きしめてしまいそうになるのを必死に抑える。
彼女と目が合う。
一瞬、驚いたように目を見開いた彼女は、俺をじっと見つめた。
しばらく動かない彼女に、俺は震える声を抑え、平常心を振りかざす。
「どうしたの?」
「・・・いえ。それじゃ、また」
そう言った彼女の声が少し掠れていたのは気のせいだろうか。
有無を言わせず踵を返し、早足で歩き出した彼女の後ろ姿を呆然と見つめる。
やっと彼女をこの腕に抱きしめることができたというのに、キスのひとつもできないばかりか、まんまと彼女を手放してしまった。
「頼りになるいい先輩」の殻を壊すのが怖いわけじゃない。ただ、彼女に俺の思いを伝えてしまったら、取り返しのつかない何かがはじまってしまいそうで、俺は自分で最後の線を引いてしまったのだ。
胸ポケットからLarkを1本取り出し、火を付ける。
もうあんな思いはたくさんだ。だからこれでいい。
ふーっと吐き出した煙に、彼女の白い吐息が重なる。
11月の夜は、思ったより肌寒い。
明日、彼女に会ったらまた抱きしめてしまうかもしれない。
先程の決意とは裏腹の自分の本心に、苦笑いする。