「繊細さん」って名付けられて、安心したかい?
生きづらさを吐露することも市民権を得てきた。
僕らが抱えるこの怠惰や絶望にも、いつか誰かが名前を付けてくれるだろう。
街でも職場でも、表向きは皆そんな素振りを見せてはいないのに、ツイッターを覗けば多くのSOSが飛び交ってる。そもそもいつの時代にもあった軋みや悲鳴がインターネットの登場で開放され、SNSが拡声器の役割を果たして身近に届くようになっただけかもしれない。
人類は未知なるモノには名前を付けることで安心してきた。知識と歴史を蓄え、解釈することで恐怖から逃れてきた。近年やたらと本屋で目についた同じようなタイトル。HSPはまだしも、「繊細さん」って気持ちの悪い言葉だなと思った。
繊細さんと名前を付けられて安心したかい?
僕も繊細な自覚はあるけれど、勝手に一括りにされてあるあるネタぶちかまされても全然救われた気はしなかった。僕らはいつでもオリジナルに病んでいる。チープな呼称で配慮はいらない。繊細さを振りかざして傲慢になる気もさらさらない。
「病んでるのはみんな同じ。君だけじゃない」
それは時に安心材料かもしれないが「甘えるな」と突き放されたようにも捉えられる。多様性の時代、病み方もその見え方も多様だ。なんせ一人ひとり個体も価値観も生きてる環境も異なる。
だから「どうして誰にも理解されないの」という苦しみも至極当然で、誰にも簡単に理解されないから苦しみになってるのであって、理解された時点で苦しみではないし、苦しみと呼べる時点で他者からの理解は期待しない方がいい。
知見ある人たちの激励には感謝する反面、ひとまとめに名付けたらそれで理解した気や解決した気になるのは勘弁してほしい。
以下は金城一紀の小説の一節。
"在日"と呼ばれ差別を受けてきた主人公が本音を露わに叫ぶクライマックスの場面。テーマこそ在日とアイデンティティだが、名前を付けられることの功罪は通ずる点がある。
名前があることで安心感を覚えたり、共有も伝達もスムーズになったりすることがある。
一方で、僕らは名前をつけることの無意味さも理解しておく必要がある。安易なネーミングやカテゴライズによって問題解決した気になって、本質がぼやけるリスクも忘れてはいけない。
どこかでいつも、名前のつけられない感情や瞬間を求めて生きてるようなところがある。名前なんて野暮だよって場面を。容易にラベルを付けられない、因数分解のできないそれはきっと、純度の高い本物であるはずだし、逃げずに向き合う価値を秘めた手がかりである気がしてならないから。