私が、なんとか生きていられるわけ#真夜中インター
私は、気がついたら、居場所のない子供だった。
家にいて、本を読んでいると、親に嫌な顔をされる。「家の手伝いもせんと、本ばっかり、読んで!」別に、実家は商売をしていたわけではない。母が言う”家の手伝い”というのは、母の家事の手伝いのことだ。
父は父で、「お前、身体を丈夫にせんと、いかんぞ!」という。要するに、外に出て運動をしろ、ということだ。スポーツへの、我が子の適性が全くないことをなかなか認められなかった父は、随分長い間、私にスポーツの部活動を強制した。
学校でも、私はいわゆる”勉強も運動もできない子”だったから、教師にかわいがられるなんてことはなかった。今ほどいわゆる”学校カースト”なんていうのはきつくはなかったが、劣等生の私が、軽く扱われていたことは事実だった。
そんな私が、唯一救われたのが、本の世界だった。大人たちからなんと言われようと、私は本の世界に遊ぶことを手放さなかった。本の世界だけが、私をいつも受け容れてくれていたのだから。
実家には、もちろんろくな本はなかったから、小学校時代、最初は学級文庫の本を、高学年になったら図書館の本を、気の向くままに読み漁った。いわゆる”名作”には興味のない子供だった。ミステリーや動物の物語、やがて、歴史の物語を読んでゆくようになった。
ともかく本を読むものだから、言葉の知識だけはあった。しかも不思議なことに、初めて観る漢字の読み方が、大体はわかる。理由は、いまでもわからない。今なら、いろいろ推測できるだけの経験もあるけれど、当時の私にそんな蓄積はあるはずがない。勘が良かった、ということなのかもしれない。
言葉の知識がたまり、一人でいろいろ考えるのが好きになった私は、学校の宿題でもあった日記が、全然苦痛ではなかった。周囲の同級生たちは、「毎日、書くことなんかない」と不平を言っていたが、その不平こそが不思議だった。今思えば、何処にも居場所がない私は、自分の思いを言葉にして表現することを、次第に楽しみにしていたのだろうと思う。
けれど、小学校の4年生までは、私の日記を褒めてくれた教師は、いなかった。「何が言いたいのか、わからない」それが、教師の評価だった。一つのことを、起承転結つけて、相手にわかりやすく書くこと。教師が求めていたのは、そういうことだった。けれど、私のように、或る意味、空想の中に逃げ込んでいる部分がある子供が、味気ない日常について、何を語れるだろう?
読んだ本の感想を書き綴る、という知恵は、まだなかった。また、教師に対して(そのころの周囲の大人たち全般に対して)心を閉ざしていた私は、自分が楽しんだ本のことを教えたいとはつゆほども思わなかったのだろう。自分の考えを否定されることがあまりにも多かった私には、安心して誰かに自分の考えや思いを打ち明けることはできなかったのだ。
それが変わる出会いがあった。
風疹に罹って、4年生の終業式と5年生の始業式を欠席するという”おお仕事”をやった私は、5年生になってしばらくして、親から渡された診断書とともに、新しい教室に恐る恐る入っていき、新しい担任の白井先生に、挨拶して、診断書を渡した。診断書を一瞥したのちの白井先生の第一声が、40年以上たった今も、鮮やかによみがえる。
「ああ、あんたが、風疹で休んどったフラーノさんな。でもまぁ、風疹だろうとなんだろうと、休みは休みやけんなぁ」
白井先生は、結構怖い先生だという評判は聴いていた。学年で唯一の女の先生が担任で、内心安堵していたのだが、それは初対面のきつい一言で、吹き飛んでしまった。そのころ、不登校の傾向が出ていた私は、にこりともしない先生にすっかりおびえてしまい、一学期は休みがちだった。
白井先生も日記を宿題に出していた。先生は怖いのだけれど、日記はちゃんと読んでくれて、割にまめに返事もくださっていたように記憶している。返事は、優しいものが多かった気がする。授業などとのギャップに、混乱していた節も私にはあった。
この白井先生が、或る時の授業で、私の日記をみんなの前で激賞してくださったのだ。
「みんなの日記は、たいてい一つのことを、だらだら書いとるだけやけど、フラーノさんのは、いろんなことが書いてあって、読むのが面白い」
先生のこの言葉を聴いたとき、びっくりしたのと(おそらくは)感激したあまり、頭の中が真っ白になったように記憶している。
私の書いたものを、きちんと読んで受け止めて、それを「面白い」と言ってくれる人がいる!
私の当時の感動を言葉にしたら、そういうことなのだろうと思う。ずっと孤独の中で、受け止めてくれる人を求めながら、ひたすら言葉を紡いでいた。自分の書いたものが、人に届くということがどれほどの喜びかを、白井先生は教えてくださったのだった。
日記が創作か? と、問われると、言葉に窮する部分もあるのだけれど、言葉を紡いで、人に何かを伝える、という極めて広い意味では やはり含めてもいい気がする。
この11歳の経験が、私の創作の原点でもある。私にとって、「書く」ことは、生きることだし、人への信頼がまだあることを確認する作業でもある。物書きを本気で目指していたこともあるし、20数年ペンを折っていたこともある。それでも、このnoteに出会って、再び、言葉を紡ぐようになった。不思議なもんだなぁ、と、つくづく感じるのであります。
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大好きな猫野サラさんが同志の方々と、文化祭を立ち上げられました。それで、ひさしぶりに「企画」に乗ってみた次第です。ここまで読んでくださった方々、また、サラさんや野やぎ編集長に感謝です💕
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