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昭和36年にクラウン⁉︎ からの〜

10年以上前ですが、たまたまテレビで見て驚愕した昔のTV番組があります。そのときmixiかどこかでも書いたんですが古すぎて見つけられないので、今回ここに記録することにしました。

その番組の名前は「魔法のじゅうたん」と言います。

魔法のじゅうたん

それはNHKで昭和36〜38年に放送されたもので、黒柳徹子が進行役を務める子供向け30分の生放送番組でした。

番組の目玉は、後半に、公募&抽選で選ばれた子どもたちが魔法のじゅうたんに乗って各地の空の旅を楽しむというもので、当時はまだ革新的だったクロマキーという合成技術で臨場感溢れる雰囲気を写していたようです。

他にもいろいろなコーナーがあったようですが、なかでも知ってびっくりしたのが3人のクラウンが出ているコーナーがあったということです。
しかもピエロじゃなくてクラウンと呼ばれていたんです!
初めて見たときは度肝を抜かれました。

私はてっきり、日本ではいつまでかはずっとピエロと呼ばれていて、およそ70年代頃から欧米に行ってきた芸術関係の人々の間で道化師はクラウンというんだ?と知られるようになり、それから80年代後半にクラウンカレッジができてピエロじゃなくてクラウンというのが少しずつ認知されるようになったのかなと思っていました、勝手に。

ピエロなのクラウンなの、どっちなの、どっちじゃないの、どっちでもいいやなど、悩んだり論争したりあきらめたりというのがありまして、特にクラウンカレッジ系の私たちはクラウンと呼ばれたかったというのがありました。
クラウンという言葉が定着しないことに苦悩したし、また、こちらが何も言ってないのにクラウンと呼んでくれた!、などということがわざわざ話題にのぼることもありました。でも世間からはいつまでもピエロ、ピエロと。

そんな中にあって、昭和36年に普通に「クラウン」と呼ばれていたを見つけたのですから、驚愕しないはずありませんでした。

この番組は毎回生放送だったせいもあり、映像が残っているのは一回分だけだそうです。その一部がここにあるので是非みてみてください↓

面白そうですね!

それにしても天下の国営放送が昭和30年代後半に「クラウン」と呼んでいるのに、その後なぜ「ピエロ」で通ってしまっていたのか。疑問は残りますがまあそれはおいといて。

記事中に「本場ヨーロッパの道化師の動きを研究」とあってこれもまたびっくり。
昭和36年(1961年)って言うことは、わたしは生まれていません。東京オリンピックよりも前だし、ビートルズが来るより前だし、人々が普通に海外に行けるような時代ではなかった。フェリーニの「道化師(I CLOWNS)」が1970年ですからそれより随分前です。どうやって「本場ヨーロッパの道化師の動きを研究」したのでしょうね。

ここには3人のクラウンが登場しています。
確かに動きはどこか西洋的だし、キャラクターも衣装も素敵ですね。
演じているのは、辻村真人さん、坂本新兵さん、高見映さんだそうです。
辻村真人さんは俳優で声優さん、坂本新兵さんは「ピンポンパン」のシンペイちゃん。高見映さんは「できるかな」のノッポさんです。ノッポさんとして活躍する前はクラウンも演じていたんですね!

ノッポさん

ここでちょっとノッポさんのことを。

ノッポさんは最初はダンサーとして芸能活動をスタートし、1967年からノッポさんを始めて「できるかな」などの番組で1990年まで約24年間、喋らないキャラクターで国民的人気を博しました。日本人なら知らない人いないですよね。

そんなノッポさんは京都生まれ。
京都の太秦(うずまさ)で生まれて、幼い頃に東京の向島に移住したそうです。
太秦? え、生まれたのは太秦?

そう、ノッポさんのお父さんは、ノッポさんが生まれる前頃までマキノ・プロダクション所属の役者だったんだそうです。
マキノ・プロダクションとは、大正から昭和初期にかけて京都にあった日本の一大映画会社です。マキノ省三〜マキノ雅弘と受け継がれ(とざっくり書きますがそこら辺は複雑)、多くの人気映画を生み出しました。牧野省三は日本映画の父とも呼ばれています。
ノッポさんのお父さんは数多くのマキノ映画に出演しますが、途中でマキノを辞めてしまいます。ですがそのあとも太秦の役者長屋に住んでいて、そこでノッポさんが生まれたということなのですね。

柳妻麗三郎

話はお父さんに移ります。
お父さんの芸名は柳妻麗三郎、など他があったようです。

マキノプロ所属時代に幾つかの映画に出演しましたが、そのうちの一つ「活動狂時代(大正15年)」では「チャップリンに似た男」役を演じ、子役スター松尾文人とともに「大チャプ小チャプ」と宣伝されたそうです。

柳妻麗三郎 wikiより

めっちゃ見てみたいですね!

この後も数多くの映画に出演したのですが、マキノプロの経営が悪化してお父さんは退社します。辞めた後も太秦の役者長屋に住み、京都にいくつか点在した映画撮影所で仕事をしたり電器店を営んだりしていたそうです。(この頃ノッポさんが生まれた)

ところがそのままでは終わらないお父さん!
電器店の仕事と並行して、映画館での上映の幕間にチャップリンのモノマネなど「チャーリー高見」と名乗って芸人としても活動していたそうなのです!
チャップリンが大好きだったんですね。
当時、西陣などに多くあった映画館でチャーリー高見さんが活躍していた姿を想像すると、活気に溢れている賑やかな情景が浮かんできます。

その後、家族は東京の向島に移転。
そして第二次世界大戦時には、戦禍を避けて一旦岐阜へ疎開します。

が、そこでもお父さんたら!
子供のノッポさんが「やめてよ!」というのにも関わらず、疎開先の人々にチャップリン芸を披露してニコニコしていたそうです。

その時のエピソードがノッポさんの談話として記録に残っています。

お父さん、本当に生粋のエンターテナーですね!
それがノッポさんに受け継がれていたんですね。

お父さんが子供のノッポさんに愛情たっぷりに愉快な世界を伝えていたのだろうと思うと、楽しい豊かな気持ちになります。

最後に

ここまで、魔法のじゅうたんのクラウンから始まり、ノッポさん、チャーリー高見さんについて記してきました。

芸の世界はずっと繋がって受け継がれているんだなあ、そうやって今の自分達がいるんだなあと思います。

ちなみに「魔法のじゅうたん」は、NHKが出しているDVDにもあるようですが、その番組30分が全部載っているかはわかりません。誰か持っている方がいたら詳しいこと教えてもらえると嬉しいです。クラウンが見たい!



書いたのは、

ちいず
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