<竜>マボヤの有尾変態を誘導する人工進化実験について
私の人生における諸事情もあり、今後は、自主的な生命科学や生物進化の自学自習は難しくなると思われるからだ。今までの人生を振り返れば、感動した生命現象は幾つもあり、だからこそ生命科学を専攻したことに一片の悔いも無いが、その大部分は、私よりも優れた他者が、明快かつ読みやすい文章でまとめており、私が逐一駄文を仕上げる必要はない。従って、私としては、世間での注目度は著しく低かったかもしれないが、ある一点において私の心をときめかせた、言い換えれば、想像上の生き物とされる<竜>を見たような、そんな過去の研究を紹介してみたいと思った次第である。私は、表題の「有尾変態」を起こしたマボヤの写真に出会った時、外見的にも<竜>を感じた。当時は、オタマジャクシがその姿のまま生殖できるようになれば<竜>といえるだろう、と思っていた。実際にこのようなことを人工的に誘導する方法は確立されておらず、薬剤処理などで変態を抑制したまま育てても、オタマジャクシは肉体に異変を起こして生殖能力を獲得することもなく死んでしまうため、不可能とされている。ただ、血湧き肉躍る冒険のような一時を私に授けてくれた<竜>を拙い文章に少しでも残せれば、自身の人生に思い残すことはなかろうと思ったのである。この一卒業論文は、いわば、私が私自身の子供じみたときめきの対象でもある<竜>を埋葬する「卒業論文」である。そのため、自ら感動した一点を切り取る形式をとる。紹介する研究の背景や医学への応用については、使用文献を参照していただければと思う。
それでは、本題に入る。脊椎動物の起源については諸説があり、その中で、ホヤの幼生がそのまま変態することなくオタマジャクシ型のまま成体に進化するという考えがある。これは幼形進化と呼ばれている。要するに、外見は幼生のまま、体内だけが変態を遂げるということである。
このことが脊椎動物の進化の一時期に起こったことを証明するための実験を知ったのは、「遺伝」1998年4月号を開いた時だった。当時東京大学医学部の研究者だった西原克成博士らによる実験だった。ホヤが幼生の形のまま進化できれば、消化管が開口したまま成長して摂食と鰓呼吸の両方が可能になり、このオタマジャクシの形をした成体が頭進を行って、重力の作用によって頭・首・胸郭・尾・鰭が分化し、異甲類などの古代魚の祖先へと進化したということになる。
西原博士は、実験計画として、ホヤの変態がアポトーシスによる尾の短縮で行われているが、自然環境でそのアポトーシスを阻止する引き金として、①波による岩への機械的な付着阻止、②海水の温度、③光、④塩濃度、をあげた。実験動物としてマボヤおよびユウレイボヤを用いて、スターラーによる流水で付着を阻止しても水の動きで変態が起こること、光や水温の変化でも変態に変わりがないことを確認したが、人工海水中のカルシウムイオンの濃度を下げるか、これと競合するガドリニウムイオンの添加により、マボヤで有尾変態の生じる個体を得ることに成功した。
1996年の日本機械学会材料力学部門講演会講演論文集には、具体的な実験条件と結果が記載されている。
(1) ユウレイボヤを、水温4℃、18℃、23℃で、マボヤを水温13℃の海水中で、スターラーを回転させた渦の流れの中で、孵化させた。
(2) ハントホッフの人工海水(pH8.2)中の塩濃度を、以下の条件で変化させ、水温13℃でマボヤを孵化させた。
① カルシウムイオン:10-5 mmol/Lの人工海水(※後述の濃度と矛盾しているが、原文のままとした)
② カルシウムイオンのかわりにガドリニウムイオン10-5 mmol/Lの人工海水
(1)の実験では全て通常の変態が起った。(2)の実験では、カルシウムイオン20-30 mmol/L (海水では36 mmol/L)では尾の吸収が途中で止まるものが、全ての孵化した幼生の1/3で見られた。ガドリニウムイオン10-5 mmol/Lの人工海水で孵化させた500個中30個体で有尾のまま変態を起こしたが、2週間後には死んでしまった。このガドリニウムイオンの処理は、幼生が孵化した直後でのみ有効であり、孵化後期では処理してもこの現象は見られなかった。西原博士らは、一連の実験結果を、幼形進化の成功とし、オタマジャクシ型幼生・通常の変態・有尾変態の三者は環境因子の変化により形態が変化して育っており、ヘテロクロニーによるものと考えた。
しかし、西原博士らのチームは、本実験を進めることはなく、脊椎動物の起源についても、幼形進化の考えを捨て、その起源をサルパの群体に求めた。西原博士の著書「重力対応進化学」によると、サルパが群体として連なった「鎖サルパ」がある時期に遺伝子重複して群体の幹から分離し、一個体として独立した多体節の姿を考えた。ホヤのオタマジャクシ幼生は単体節だが、この独立した鎖サルパは多体節になり、これが頭進し、ナメクジウオや円口類の祖先になったと考えた。ただし、鎖サルパについては、この著書では前から後ろになるにつれて個々のサルパが小さくなる鎖状の群体のイラストのみであり、根拠になるような文献など資料の存在を見つけることができなかった。
有尾変態のマボヤ幼生については、許可を得ていないので掲載できないが、竜のようにしなやかな尾を持ったまま、尾以外の体は成体に変わろうとしているホヤの顕微鏡写真および組織切片標本写真には、胸がときめいたものだった。ただし、ガドリニウムイオンを用いた変態の抑制は、本実験にのみ有効な手法であり、動物門に関係なく幼形進化を誘導できることを意味しない。ウニでは骨片の形成阻害、カニ・フジツボでは特に変化は見られない、ということが、検索で通り過ぎた幾つかの文献の要旨に書かれていた。また、2000年以降の研究では、ユウレイボヤだが、セルロース合成酵素を作られない幼生では有尾変態ができる、神経系のゴナドトロピン放出ホルモンが働かない幼生では有尾変態ができることもわかっているようだ。この知見は日本語で検索ができた。そのユウレイボヤの写真は確かに有尾変態をしていたが、マボヤのそれに比べると、<竜>としての荘厳さが足りなかった。この20世紀末に行われた世界に類例のない実験は、一つの希望を持っていると思う。幼生転移仮説や細胞内共生説のような、地球と生命の歴史の中でただ一度の偶然ともいえる進化の一大イベントが、海水環境の組成が変わることで起こりうる、という期待である。実際に、太古に起こって成功したが絶滅し化石にも残らなかったのかもしれないし、人類が消滅した未来に起こりえないとも言い切れないのである。ガドリニウムイオンの濃度をさらに小さい単位で微調整していくと、天寿を全うして子孫を残せる有尾成体が出現するのではないか、少なくともオタマボヤの姿よりは逞しいのではないか、とも夢想したくなる。
使用文献
系統発生の源をさぐる 西原克成著 遺伝 1998年4月号(52巻4号) 裳華房
生物の骨格系物性とW.Rouxのバイオメカニクス 西原克成ら発表 日本機械学会材料力学部門講演会講演論文集(Vol.A)1996-10.3~4
骨格系生体材料研究の最近の進歩と生命科学の統一理論 西原克成著 人工臓器26巻4号 1997年
重力ラマルキズム 西原克成著 科学10大理論「進化論争」特集 学研 1997年
重力対応進化学 西原克成著 南山堂 1999年