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8/28 長野 晃『カール・シュミットと国家学の黄昏』

コツコツと読んでいる本がある。長野 晃『カール・シュミットと国家学の黄昏』である。まだ読み終わってないの、と怒られそうだが、仕方がないじゃないか。

1章の「新たな国家学の探求 1920-1923年」は読み終わった。かつて、国家学というものが存在したが、既に時代に適合しなくなっているなかで、シュミットがいくつかの先駆者を論難した箇所である。例えば「独裁」。国家学において重要なのに学問的検討が不足していたため取り組む。そこでは独裁というのが、最高権威からの「委任」であることを指摘するとともに、「委任独裁」とは異なり、国民の意思が不明であるとき、独裁官は「憲法制定権力の名において行為する代表者」、すなわち「主権独裁」となることを喝破した。この憲法制定権力は、イェリネックの機関説の中に取り込まれないものとして、既存の国家学にダメージを与えるものだった。あるいは「形式」。これまでの国家学が指摘していた国家や法の持つ「形式」性を認めつつ、概念の曖昧さに不満のあったシュミットは、法にとっての形式とは何かを追求した。そして国家による「決断」「それ自体の価値」こそに意義を見出した。そして「代表」。イェリネックが「第一次機関」の国民と「第二次機関」の議会を一体のものに結合してしまったことに対し、シュミットは、ローマ・カトリックの合理主義を経済的技術的合理主義と対置したうえで、教会と人民の関係のような「上からの」代表なるものを主張した。全体として、初期シュミットはイェリネックを想定して、その国家機関の一体性の想定(確かに、フィクションが過ぎる)や無内容性みたいなものを嫌い、もっと、その外側にある「憲法制定権力」や、国家の、法形式の中で為される種々の「決断」、そして上から下される「代表」、など、後知恵として後のシュミットに繋がるような発想の萌芽が見て取れる。けどまだ何も起きていない。

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