佐藤
ヴンダーカンマー
ラカン派(ついきこうすけ)が宮廷愛に見る愛の幻想を巡る言説は全て騎士道物語のキッチュたる所以を見逃した反故と言えるだろう。 宮廷愛は、その叶わなさ故に崇高な愛を歌っているものでは断じてない。寧ろ、当時の社会で貴族は一定の周期で居住する城を変えるため、その城での火遊び騒ぎは起こり得ることだ。騎士からすれば最高の話だ。現代のシンデレラストーリーやなろう系と如何に違うのだろうか。違いは少ないだろう。 つまり、宮廷愛とは浮気することの叶わなさを歌うことで浮気はなかったのだとする
ロバ・サトゥルナリア祭・ジギースターダスト・マリリンマンソンは一つの線で繋がる文化事象と言えるだろう。 サトゥルナリア祭から話を始めよう。この祭りは、奴隷の中から祭りの間のみ君臨する王を選び出し、祀り上げた後に殺す儀礼だ。その根底にはロバの供犠があるだろう。偽物の王の象徴はロバの耳だった。 ジギースターダストは、ポップ時代に於けるサトゥルナリア祭だ。大衆の中で王として振る舞い、大衆に殺され、大衆の中から新しいスターが選ばれる。思えばマリリンマンソンもジーザスクライストス
古賀春江の同名の作品は、クレーの影響云々などより1926年という年号から読み解くが宜しい。 20年代とは何か。黄金の20年代か。否。黄金という絶対的な価値が霧消した時代だ。1920年代とは金本位制崩壊のディケイドだ。金本位制とは、絶対的な価値を金に求める極めてポスト-ナポレオン的な思想である。そのあざとさ、アングルによるナポレオン表象や貨幣の価値を「金であること」に求めたマルクスの誤謬と重なる。 ならば遊園地とは。絶対的な価値の周りを永遠に廻り続けるメリーゴーランドだ、
Cheap Trickは往年のアイドル路線のような曲を中年になって演奏することで、90年代に通底する暗く猟奇的な雰囲気を纏うことに成功した。 まずは歌詞を見てみよう。あの頃のままだ。次に演奏。あの頃のままだ。しかし是れは純愛の曲ではなく「ぼくはずっと妹がほしかったんだ」と告白するストーカーの曲なのだ。同じことを70年代に告白しても純愛の範囲内で片付けられるが、90年代になれば話は違う。犯罪者だ。 思うに、グランジやニューメタルの若造にこの雰囲気は出せない。どんなに猟奇的
リドヴィナの身体が崩れ落ちる過程を徹底的に描写し尽くしたユイスマンスに耽美の真髄を見てみよう。 耽美とは男の子文化だ。ロボットが被弾し、形態を崩していく姿こそ大和男の子に於ける耽美の原体験だ。その様をリドヴィナに重ねることは容易い。思うに描写すること自体の快楽に身を委ねることが耽美だ。ユイスマンスに依るグリューネヴァルト評は当にそうで、言葉が絵画そのものを捉えることなく、上滑りしていく。 叙述というよりは表記。そう、耽美の終着点は表だ。この作品でも最終的に表とも言えそう
大全という書物の在り方は、世界がそのまま記載された書物を意味し、世界を全て読み解く精神を宿す。 何故西欧中世象徴学は複雑怪奇か。全てに等しく意味が在り、重層的な理解を要するからだ。其れらを全て記載するのが大全。大全とはそれ自体で閉じた世界を表出するのだ。 思うに、デカルトは中世的な書物=世界の在り方に立脚していた。そもそもの西欧放浪の理由が「世界という書物」の為だ。其処に存在するものは全て重層的な意味があるが、その意味を疑いに疑って辿り着いたのがコギト。重曹的な意味を否
大島優子は何故Dカップで、尚且つ巨乳扱いされていたのだろうか。其処には、70年代以来日本国内にある巨乳を巡る言説の存在が見える。 日本ではバチェラー誌等の勘違いにより巨乳がDカップだった。欧米のDカップは、日本ではそれ以上のカップ数となる。ラス・メイヤー作品を巡って為された勘違いはその後も影響を及ぼし、Dカップは巨乳の代名詞となる。 Dカップ=巨乳のアダルト作品が未だ製作され続けていた80年代から90年代に多感な思春期を過ごした世代が30代を迎えた時代こそ、AKB48が
ハーゲンス博士によるプラスティネーションとは、復活論争を技術の力によって決着をつけた神学的技法だ。 アクィナスが語るに、腕が無い状態で死んだ者は腕が有る状態で復活し、幼くして死んだ者は青年の姿で復活する。今日のDNAのような考えで、其の人の在るべき姿というものが措定され、其の姿で蘇る。ではウンコを我慢して死んだ人間は如何に。曰く其のような状況に限らず、全身がエーテル的液体に満たされて復活するべきと。 全身を満たすエーテルとは、極めて神秘主義的思想だ。プロティノス以来の流
図像抄、そしてスキヴィアスの成立した12世紀という時代は、仏教とキリスト教、洋の東西で魔術を正当教義に組み入れることがなされた時代と言える。 混濁が進み、前後不覚の様すらある魔術を正当教義に取り入れるためには図示が良い。平安時代は曼荼羅に代表される魔術の整地化の時代だ。同じように、スキヴィアスを著したビンゲンは、神秘体験を図示し、薬草学を修道院の治療文化に取り入れた。洋の東西問わず、ある種アングラな思想を取り入れることが早急の課題であった。 なぜアングラを取り入れたか。
Aerosmithの言わずと知れた名曲にバルザックの影を見るとしたら、如何か。「歩き方」を指示するチアリーダーの妹と従姉妹の姿を追おう。 バルザックはビュフォン的な視線で人間を区別し、描写する。当に人間の博物学だ。同じ手法で女性達を分類し、生意気とする歌詞は、バルザック的な批評の域にある。逆に「歩き方」は相手の女性によって教示される。此処には自分の視線が自分には向けることが不可能だという至極当たり前の前提がある。 「歩き方」、キスをするタイミングは相手に教示される。では
アラステアの生き様は、まさに自己をオブジェクトとするダンディそのものだった。 そのダンディ振り、女装癖やピエロ扮装癖に極まり。自らを一定の視線の中で消費される対象とするは、近代の視線の政治学を超えてユクスキュルの議論を思わせる。否、ユクスキュルを超えてラカンをも。思うに、視線という環世界への極度の順応こそが神経症なのではないか。 神経症の前提に視線を置くとすれば、ユベルマンまでもが想い起こされる。その視線が何を求めるか。情念定型だ。情念定型とは何か。情念定型とは、人間の
Crazyという英単語に含まれるSchizophreniaとも通底する「ビリビリ」・「ズタズタ」の感覚を忘れてはならない。 Schizophreniaとはつまり、人格がズタズタに「分裂し」、「統合を失う」ことだ。狂気概念一般にこの態度を見出す必要がある。Crazeとは陶器の罅割れに他ならないのだから。ならば分裂病という呼称ですらニュアンスが足りない。人格がズタズタになる感覚が必要だ。 狂気一般、つまり分裂病に限らず、神経症にも人格が寸断される感覚を見出すべきだ。ユベルマ
熱力学第二法則は、ホラーが如何に恐怖を作り出すかを説明する。其れは境界の曖昧さと、曖昧な境界を落下方向のみに進むミクロの世界が関係する。 モロー博士はゴシック小説とSFを繋ぐ橋だ。其の恐怖は、人と動物の間の境界が曖昧であること、動物が完全に人になることは断じてないことから発される。言い換えればエントロピーは増大し続ける。俗流ダーウィニズムとプロティノス以降の「流入」の思想が此処に於いて結実する。 そう、人間のエントロピーが増大した結果が動物や怪物なのだ。そして動物に近い
元祖メジャートランキライザーたるコントミンの発見は、世に溢れるポスト-アドルノ的事象の一つに数えるがよろしい。 ベートーヴェンを聴きカントを論じていたはずなのに二度の大戦と大虐殺が巻き起こる。何故か。ベートーヴェンを聴きカントを論じていたからだ。アドルノの散文以降、西洋からの逃亡の手法は多岐に渡った。オリエンタリズムに走れば鈴木大拙がいてヒッピー文化の礎になり、プリミティヴィズムに走ればアール・ブリュットとなった。 そんな時代背景の中でコントミンは抗精神薬として発見され
自分の中で天人五衰とジョジョ6部とMUSEが結びついている。全て終わるには、世界が光に包まれていなければならない。 ハッピーエンドでもバッドエンドでもなく、無。全て終わる際の光はMUSEのExogenesis: Symphony最終章が描き出している。作品のコンセプトに沿えば、苛烈な反体制運動も凄惨な拷問も終わり、ただ死を待つ光の中にいる曲だ。天人五衰の最後の「殆ど何もなさ」とジョジョ6部の徐凛達がいなくなってしまった世界の「殆ど何もなさ」。 ここに無の思想を見る。思う
S.E.Sの曲を同じ事務所の後続達が歌っている事実が、KPOPを面白くしているように思えてならない。 さて、KPOPは芸術だろうか。断じで芸術などではない。そんな毒にも薬にもならぬものではない。KPOPは芸能だ。それを体現するのが同事務所内での曲という「技芸」の引継ぎだ。所謂アートに成り下がることなく技芸の継承を行う術は、師と弟子を基本単位とする東アジアの思想空間を想わせる。 サブカルチャーは芸能である限り社会と強い繋がりを持ち、影響を及ぼす。芸術化の隘路に嵌るが最後、