Morning View


 誰かがドアを開けた。その音が、ぼんやりと広がる意識の片隅で響いた。頭の中にかかる白いもやは濃く重く、覚醒しようとしている意識を拒んでいるように思える。
「あれ。聖人のやつ、まだ起きないの」
 と、少し気怠そうな若い男性の声が聞こえてきた。おそらく部屋のドアを開けたのも彼だろう。
「ああ。一週間前にバックアップデータの転送がようやく完了したからな。記憶の構築と定着化で時間がかかってる」
 すぐ隣から、また別の男性の声が聞こえる。
「あとどれくらいかかる?」
「何も問題が無ければ早くて今日か、明日には目を覚ます予定だ」
「あくまでも予定だろ」
「まあな」
 白いロールカーテンの向こう側から聞こえてくる二人の声。それらが聞き慣れた友人たちの声だと理解したのは、意識がはっきりと物質の輪郭を現し始めてきた頃だった。何やら、自分のことについて話しているようだ。彼らの話から察するに、どうやら自分はここで、少なくとも一週間は横たわっているらしい。自分がこうなってしまった記憶は、吹っ飛んでいるせいで思い出せないが、天井に走る幾多の線と、嗅ぎ慣れた消毒液の臭いも相まって、幼い頃の記憶が一瞬、脳内を横切った。

 国境線に沿うように建設されたコンリート壁。それを超えた先に広がる大洋__海上の人工島に建設された、あの無機質な、生活感のない白い研究施設。政府お抱えのそれは、生化学研究を通して人類に貢献するという旗を掲げている。だが実際は、理想とは少しずれていることを、俺は知っている。地下施設で行われている生物実験、最新のバイオテクノロジーの応用__その果てである『クローン』が、造られている。俺は、そこで産まれた。そして、物心がついた頃から俺は、あの施設がずっと嫌いだった。だが、おかしなことに、嫌いなものばかりでもなかった。医務室にある布団は心地良くて好きだった。大きくて優しいものに包まれている感覚__あの頃の俺は、どうしてそれに心を許したのだろう。あのどこからやってきたのかもわからない『優しい記憶』は、クローンの俺とオリジナルとの整合性を高めるためのインプラントでしかないのに。

 ふと、足元から寒さを感じた。布団の上から自分のつま先を見やる。日に当たらず青っ白いまま、いつのまにか大きさだけ立派になった自分の足。なんというか、こう見ると惨めな気分になるな__そう思いながら冷え切った足をゆっくりと動かし、布団の中へ戻した。それから、土中でうずくまる兜虫の幼虫のように体を丸めた。そして思った。土の中から出てきた兜虫の成虫は、一体どんな朝を迎えるのだろうかと。生まれたばかりの光を全身に浴びて、夏の空へと飛び立つ気分は、どんなものなのだろう。布団の中で無駄に時間を持て余している今の俺には、とても想像がつかない。それならいっそのこと、兜虫になってみようか__いやいや、まさか。俺は寝返りをうち、体の向きを変えた。布団の中に停滞している生温い空気がゆっくりと動き、丸めた身体にまとわりいた。

 そういえば、指導教官にこれでもかと言わんばかりに拳を叩き込まれた日はよく、医務室のベッドで体を丸めていた。なるべく嗚咽が漏れないように厚い布団を頭から被って。人の形をしていながら、人としての価値が、クローンの俺には与えられていなかった。人間様の感覚によると、自然物は人知を超えた存在として敬愛するが、科学で出来上がった存在は違うらしい。なんとも都合がよくて馬鹿馬鹿しい話だ。未だに猿から進化したと思っている人間もいる。人間ってのは、自分が理解できないものを証明しようと科学で理由づけするくせに、それがわかった途端に畏怖し、忌み嫌う。自分たちがどれだけ惰性にまみれているか、よくわかっていないんだ。俺は、自分と親しいからわかっている。嫌なくらいにね。そんな面倒くさい自分とずっと、殻の中に篭っているんだ。陰険なその心と一緒に、二人分のスペースしかない穴の中で。

「ん? 聖人、起きたっぽいな」
「え、なんでわかったの」
「脳の活動量が一気に上がった」
 そう男は言い終えると椅子から立ち上がり、ロールカーテンに手を掛けて一気に開けた。
「よお、お目覚めかい」と、陽気な男に声をかけられた俺は、丸めていた体を元に戻し、布団から顔を出した。仄暗い場所から出たせいもあって、突然の太陽光に目を細め、瞬かせた。何度かそれを繰り返して、目を慣らしていく。すると、先程までぼんやりとしていた景色が鮮やかさを取り戻し、はっきりと、現実の姿を見せてきた。反対側の窓から吹く風は柔らかく、心地よい。
「どうよ、一週間ぶりの朝は」
 俺は少しひんやりとしている空気を吸い込み、吐いてから彼に「なかなか、悪くはないよ」と言った。もう一人の彼はというと、俺の目覚めを確認して安堵したのかヤニが切れたのかはわからないが、煙草を吸いに部屋から出たのだった。



2009.11.09 草案
2019.08.14 修正・加筆


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