葬式のセトリ
こんにちは。冴えない主人公が恋愛をする洋画ではよく女の子とプレイリストを交換するシーンがありますよね。へえあなた70年代のインディーズなんて聴くの?ふうん若いのに趣味がいいのね、みたいなやつです。武骨にラベルの貼られたカセットテープをハイスクールのロッカーにこっそり入れ合って貸し借りするやつです。私はハイスクールという概念が好きだ。
残念ながら私にはハイスクールでウォールフラワーになるには遅れてしまったのだが、プレイリストを作ったり聴いたりするのはまだ好きです。運転で遠出するときは前日からウキウキでドライブミュージックを組んで、当日ノリすぎてブレーキとアクセルでリズムを取ったがゆえに事故りそうになったりする。エド・シーランの「Galway Girls」とサンボマスターの「世界をかえさせておくれよ」は鉄板ですね。
そんな私がアップルミュージックで組んでいて、ふとしたタイミングで定期的に見直してはとっかえひっかえする大事なプレイリストがある。うなぎやの秘伝のタレのようなものだ。それが今回の話です。葬式のセトリ。
これまでの記事でも何度か言及したことがありますね。
彼(筆者注:Sufjan Stevens)は2015年にCarrie & Lowellというアルバムを出した。私はブログのURLにあるFuneral Setlist、つまり「葬式のセトリ」をアップルミュージックで組んでいて、つい最近まで彼の曲はトリを飾っていた。葬式のセトリについては長くなるからまたの機会にする。
これからまもなくエド・シーランの音楽が色々な映画で使われる時代がやってくると思うと本当に楽しみでドキドキする。エド・シーランは涙腺ブレーカーだからね。一番好きなのは「What do I know?」で、これは今私の「葬式のセトリ」にも入っている。
そもそも葬式で曲を流すのかと聞かれるが、流すつもりだ。結婚式の主役は二人いるが、葬式の主役は一人、つまり私しかいない。私のために来てくれた客になら私の好きな曲を聴かせたってかまわないだろう。私の読経はポップミュージックであって然るべきだ。その方が私を思い出しやすいと思う。
「葬式のセトリ」を組むルールは簡単だ。
・生前好きだった曲をたくさん入れる。ただし、構成もちゃんと考える。
・80分に収める。なぜならこのセトリは香典返しのCDに収録して、参列者に配るからね。2分ぐらい余ったらボーナスシークレットトラックで肉声メッセージを吹き込んでもおもしろいですね。「最後まで聞いてくれてありがとう。人生がんばってね。xoxo」的な。
今の私のセトリには18曲、1時間13分入っている。これは今の私の勝利者史観による音楽遍歴だ。なので私が不慮の事故に遭った時はこれをかけてほしい。以下、かいつまんで紹介する。
わたしの通夜はアップチューンの洋楽で始まる。
「お願い振り返らないで
目だけ見ていて」
僕が何か隠してるね、って聞くと
彼女は言った、「黙ってあたしと踊って」
(拙訳)
こういうの最高じゃない?ハイスクール・スピリッツを感じますね。PVもいいよねバカっぽくて。ラ・ラ・ランドからジャズと月光を差し引いてディスコに突っ込んだらこうなるんですよ、って感じがする。
荷造りをして、表情を確かめて
ちょっと老けて見えるし、ちょっと冷血に見えるな
深く息を吸って、大きく踏み出して
また一歩近づいて、一歩近づいてる
理由は知らないんだけど(拙訳)
この曲は私が愛してやまない「セレブ・ウォーズ~ニューヨークの恋に勝つルール~」の挿入歌だ。なんてダサい邦題なんだ、いやになる。映画自体もダサいし、爆死しすぎて日本での上映すらなかった。インターネットでも叩かれまくっている。私はこの映画をたぶん20回は観たし、これからの人生であと20回は観るだろう。この話は長くなるのでまたの機会にする。
大意はもう彼女とヨリを戻せなくなって別れた男が、あの頃の情熱はなんだったんだろう、もう全然思い出せないな、理由は知らないんだけどね、みたいなことを言っている歌です。なのにこんなに前向きでイケイケのロックだ。PVのカウボーイ調もシュールで、骨やデカい肉やヤギが出てきて世界観がイカれている。好きだ。このバンドにはそういうところがある。
もし運命がもうすこし優しかったら、心は安らいでいたのかもね
でも俺の心臓は前みたいに脈打たない
俺の目は前のように君をとらえることができない
唇は昔みたいに君とキスをすることができない
理由は知らないんだけどさ
そのあとフジファブリックの「若者のすべて」だったり、エドシーランだったり大森靖子だったりがかかる。葬式は楽しいほうがいい。
鈍行列車に飛び乗って 矛盾だらけの旅へ
わざわざ探さないでと母に手紙を書いて
行く宛なき旅です 言ってみたかっただけ
荷物は勢いだけ 猿のようにかけおちて
カントリーチックな素朴な歌だ。駆け落ちのことをうたっている。私は女性シンガーソングライターを探すのが好きで、その中で見つけた歌手だ。
旅に出るにはこれくらい穏やかなのがいいよ。前はケリー・クラークソンのSince U be goneとかを入れていたが、なんか違うなと思って消してしまった。あなたがいなくなってせいせいするわ、じゃなくて行ってくるね、ぐらいの方がいいよね。あと音域が歌いやすくて好きだ。
彼女は数年前25歳になったとき、同じ年齢の二人のシンガーソングライター、吉澤嘉代子と植田真梨恵と「四半世紀ガール」という対バンを開催した。そのうちの一人、植田真梨恵は今でも私の一番好きな歌手だ。この話は長くなるのでまたの機会にする。
ウィキペディアのセットリストの項目、なかなかおもしろい。
改めて聞いたらカッコ良すぎる。なんだこれは。
太く短かった私にとってのボカロ・カルチャーを語るときこの人を外すことはできない。結局今でも聴いているのはTreow(逆衝動P)くらいのものだ。
ニコニコ動画に「感性の反乱β」というタグがある。彼の音楽はこのタグの常連で、さきがけだ。
このタグは、感性の反乱、つまり感性が暴力的なかたちで発露している音楽作品に付けられる。
βとは、旧世代とは異なった新しい感性、つまり感性2.0とでも言うべき新世代の感性の台頭を意味するために付けられたものである。(タグの成立経緯が不明であるため、タグの解釈については諸説ある)
またこのタグが付与される曲はおよそ常人の感性では捉えきれない難解な世界観を有している場合が多いが、このタグを付与する基準は、主にリスナー側の音楽的素養を土台にした主観及び判断による。そのため、このタグは曲に対して一定の信頼度・実験性・奇抜性を担保するが、同時に該当の曲がタグの要求する程度にあるかどうか、個々人が積極的な懐疑を持って判断する必要もある。(ニコニコ大百科より)
00年代の終わりにどこからともなく出現したこのタグは、VOCALOID内のメインカルチャーの裏側でひっそりと、新しい技術音声の更にそのさきを望むすこしの有志たちによって貼られ、剥がされ、類義語「電子ドラッグ」よりはあきらかに排他的かつ哲学的な楽曲について語るコミュニティを形成しました。
今ではタグの乱用を止めるリスナーもおらず荒地と化してしまったが、かつては大百科のこのタグの掲示板は「この曲はタグに相応しいか」というきわめて建設的な議論の場でもあり、彼らリスナー、つまり自分自身が容易に理解できるていどの範疇の曲や、一見哲学だがただ音作りの汚いだけの曲をタグから外すことでその洗練を目指しつつ、誰かがニコニコ動画の再生回数最下層から拾ってきた曲を互いに聴き合い、ネットの海から新しい才能を発掘しようとしていた。そんな時代があった。じつはあった。
私はまだ流れる議論をただ黙ってみていることしか出来なかったが、それでも耳の感性が背伸びしたい年頃にこのタグには随分とハマったもので、Treowに出会ったのもこのタグを介してだ。
「変拍子の貴公子」との異名をとるTreow氏はこのタグを目印にする者にとって知らない人はいない。
虹が未知を悔い契る 答えが問いを恋わす
足をとられて踊る舞台で ざらつく声を聴いていた
振り上げて 涙削る 在り触れた手
僕を矯正する ちぐはぐな 慰めが好き
(Treow「Blindness」より)
一見中二にも見える詩は全貌を通して児童虐待を薫らせる。ジャンルを逸脱した楽曲のあつまるニコニコ動画においてもこれらをカテゴリーに入れ込むことはできず、そうしてできたタグが「感性の反乱β」だ。
最初に提示した曲「ARCA」もTreowのそんな実験音楽の一つだ。とはいえ聴くだけでは完成しない。歌詞の表記と読み方をあえてずらすことで、作詞担当の喜多嶋時透(きたじましずか)氏はこの曲を「目で聴く音楽」と称した。
今回は、歌詞の中に「歌言葉」と「詞言葉」を別々に存在させています。
読み音と漢字が違うものが多数ありますが、いわゆる「当て字」ではありません。【中略】でもそのままだと単調すぎるので、あえて違う意味を持つ漢字を載せ情報量を増幅するというスタイルで作っているというわけです。(出典:ARCAの歌詞:聴覚的「歌言葉」と視覚的「詞言葉」の共存)
たとえば歌い出しの「歌言葉」と「詞言葉」を並列させてみる。後者は歌から聴きとる部分であって、表記には表れてこない。
船長 手牽く誘歌 追われる契機 燻る汽笛
「対岸には夢見る理想郷 ほら 君が願っている祝杯」
わたしもり(=渡し守) てまねくコーラス おわれるとき くもるサイン
むこうには ゆめみるせかい ほら きみがねがっているメリー(=祝福)
つーかさこういうの好きだったよね。インターネットのエモ・オタクはさ。そんで私は今でも好きなんですよね。こういうのが。
DOPING PANDA『crazy one more time』
日本の英詩バンド。中学の頃かな、期末試験のちょっと前にこのバンドにハマって、試験は彼らの音楽を片手に乗り切った。そんで、試験が終わってワクワクしながらバンド名で検索してみたらもう解散してて、超ガッカリした。この曲は初めて聞いたやつだ。
神保町のジャニスっていうCD屋さんに彼等のCDがめっちゃ安く売ってて、1枚500円くらい。それでも当時の金銭感覚では軽い出費ではなかったので、登下校でたまに通るその道ぞいのCDショップで少しずつ少しずつ買い集めたりした。
これが一番アガる曲。ライブ行ってみたかったな~。
そのあとヴァネッサ・カールトンの「A Thousand Miles」とかポルカドットスティングレイの「レム」とか東京事変とかが続いて、最後がこれだ。つまり、出棺のBGMだ。(笑)
ソフィア・コッポラ監督の代表作、「ロスト・イン・トランスレーション」という映画がある。
CM撮影のため来日したハリウッドのベテラン俳優とカメラマンの夫に付き添って来日した若妻、2人のアメリカ人が異国で体験する淡い恋心を描く。(ヤフーより)
よく考えたらこの映画は棺にも入れてほしい。あと参列者にも配ってほしい。
コッポラ自身が若いころ日本に滞在しており、その体験をもとにした半自伝的作品と告白している。『ロスト・イン・トランスレーション』は言語問題だけでなく夫と妻、男と女、老人と若者、友人間などの現代社会多くの人間関係における相互理解の難しさ(アノミー)をテーマとしている。その孤独感を増幅する演出として、日本以外での上映に際しても、日本語のセリフには意図的に字幕を添付していない。(ウィキペディアより)
最後の行「孤独感を増幅する演出として~」っていうのあるじゃないですか。しかし、PVからも少し伝わると思うが、我々日本人は日本語がわかるがゆえに、めちゃくちゃ奇妙な感覚に陥る。監督の意図していないところまで読み取れてしまうのだ。
これを観ながら、外国人として日本に観光に来てみたかったな、と思った。アメリカに生まれてみたかったな、みたいなのと同じやつだ。外側から眺める日本はやはり奇妙で、おかしくて寂しい街だ。
東京の寂しさには二種類あって、それは夜の寂しさと、朝の寂しさだ。この映画の別れのシーンは朝だ。本国に戻ってももう出会うこともないだろう二人が最後に別々に歩み去っていくシーンは、じつは大なり小なりすべての別れに通ずる。さよならするときいつまで手を振っていればいいのかってけっこう難しい問題だよね。そういう感じで、一番別れ方が好きな映画だ。
エンドロールでこの曲、「風をあつめて」が流れる。
街のはずれの
背のびした路地を
散歩してたら
汚点だらけの
靄ごしに
起きぬけの路面電車が
海を渡るのが 見えたんです
それで ぼくも
風をあつめて
風をあつめて
風をあつめて
蒼空を翔けたいんです
青空を
これはかなり構成や繋ぎにも凝っているのでプレイリストとして一流だ。また音楽の趣味が変わったり落ち込んだ時に組み替えるんだけど。みなさんの葬式のセトリが出来たら見せてください。
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