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裏切りの決意

中国地方の覇者となった毛利元就には、三人の息子が居ました。
長男は元就の跡を継ぎましたが、ほかは吉川家、小早川家に養子に出されました。
しかし、他家の養子となったと言っても、毛利一門には変わりありません。
元就は三兄弟が常に協力しあって、本家の毛利家を支えよと遺言しました。

秀吉が没して、徳川家康と石田三成の対立が深まり、合戦が避けられない情勢になった時のこと。

毛利本家を継いでいた毛利輝元は、「秀吉公の遺児秀頼公をお守りする」という立場をとりました。
それは同じ立場をとる石田三成の西軍に加担することを意味します。

一方、吉川家を継いでいた広家は、石田三成に反感を抱いていましたが、それよりも天下の形勢は、家康に傾むきつつあると考えていました。

「三成では天下は纏められぬ。やはり実力からも指導力からも家康の天下となろう」
これが広家の読みでした。

ところが、広家が兵を率いて大坂に入った時、そこは既に西軍の将兵に満ちていました。
そればかりか本家の毛利輝元が西軍の総大将に推されて大坂城に入って来たのです。

ここで東軍の家康に味方するといえば、広家は殺されてしまいます。
「自分の使命は、去就を誤った毛利輝元を救うことである」
広家はこう心に決意しました。

東軍と西軍が関ヶ原で対決する前夜。
広家は密かに使者を家康のもとに送って、
「我ら毛利一門は、本心から西軍に従っている訳ではございません。この戦では、我らは一兵たりとも将兵を動かしません。その功に免じて、何卒毛利家の安泰を保証してください」
と頼み込みました。
家康はこれを認めて、広家は約束通り、吉川軍も毛利軍も動かしませんでした。

関ヶ原の合戦後、家康は「毛利輝元は西軍の総大将になった責任がある」として、毛利家の所領を取り上げて、吉川広家には三十七万石を与えようとしました。
しかし広家は、それを自分のものとせず毛利輝元に差し出しました。

「裏切り者」という汚名を恐れず自ら泥をかぶって広家は毛利本家を救ったのでした。

戦時の手紙を追い、歴史に光を当て、新たな発見を。 過去と現在を繋ぎ、皆さんと共に学び成長できたら幸いです。 ご支援は活動費に使わさせて頂きます。