「Nature-Centered Design」を考える
先日長野・伊那にて行われたイベントで「「Nature-Centered Design」という言葉を耳にした。いろいろと考えるきっかけになった言葉なので、ここに記録しておく。
ぼくは山岳信仰の行者・山伏として、深く山に関わり修行させていただいている。そして、行者は半聖半俗。修行しつつ、上記のようなメディアの仕事や、デザインの仕事をしている。これは、俗の悩みや苦しみに寄り添うためには、自らも俗に身を置かねばならないという行(同事行)である。
山や自然から学ぶことは多い。仕事にいかせることもたくさんある。1,300年続く山岳信仰の歴史は、歴史を守ることの重要性も教えてくれる。だから、半聖半俗の生き方は、より良い仕事にもつながる。
たとえば、歴史や文化に誠実に目を向けて考えること。リサーチすること、コンセプトを構築すること、文章を書くこと。身体的な学びから実感をもってデザインすること。デジタルの制作物は耐久性が低く、10年経ったら失われるものも多い。だが、強度の高いコンセプトがあれば、制作物の耐久性は高くなる。もし制作物がなくなろうとも、制作に関わった人たちの中にその哲学が生き続ける。それは制作物の宗教性と言ってもいい。宗教性を帯びた制作物は、決してその心が失われない。花びらは散っても、花は散らない。
当然、自然を大切にする心も育まれる。山には神仏が住まわれている。決して汚すわけにはいかない。神仏に手を合わせながら、一歩ずつ登る。ひたすら、有難いと思える時間だ。圧倒的な存在を目の前にして、自らの小ささを知り、世界を知る。神仏の胎内にもぐり、宇宙を見る。心が震える。もしかしたら、その精神性は、環境問題やエネルギー問題解決のヒントになるかもしれない。
かと言って、仕事のヒントを探すために修行をしているわけではない。あくまでも、修行は修行。だが、ぼくのからだはひとつ。どうしても体内で信仰と経済が混ざっていく。そして、その混ざった部分から、いろんな制作物が生まれていく。それはまさに、Nature-Centered Designと呼べるものなのかもしれない。