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ハリウッド映画1億円ギャラを夢みた無名脚本家のバカバカバカ!の逆転ハッピーエンドを目指したい話

#創作大賞2024 #エッセイ部門

地方在住ライターとして〝人生最大の大失敗〟な、いますぐバス乗りたいヤツ。
https://note.com/fumizukiroman/n/n4a651a0cc556

その続きとなる、ありえないハリウッド脚本・企画編である。
みなさま後悔しない人生を、マジ。


■ 無名シナリオライターがハリウッド映画に採用されたというアホみたいな事実

1990年代の日本全国に、果たして何人、自称〝ハリウッド映画〟に関わった〟シナリオライターさん、脚本家さんがいたのかは知らない。
しかし、そのなかで最も実績のない人物といえば、わたくしでSHOWー♪

派手なBGMが聞こえたところで、実は昔、某映画製作会社の外部ライター募集に応募して。
東京面接でなにげに合格して、ハリウッド企画とシナリオを頼まれた、デビューもしていない無名シナリオライターの大ポカの記録である。

そもそも、こんなことってある?
ほぼド素人が、いきなりハリウッド映画の企画なんて……。

これが夢のような3年間でした。
チャンスはどこに転がっているかわからない。

■ はじめて書いた映画企画書のデキと、強みは各業界のコネ、こだわりのなさで合格

採用理由は、初執筆の某映画企画書と初期シナリオ(求人に送付した資料はこれとオリジナルゲームの企画書のみ)。

映画の企画・構想そのものは、原作者T氏とプロデューサーO氏であり、その話を編集し、原作を脚色したシナリオを執筆。
それらをまとめた劇場映画の企画書(その表紙ロゴが映画にもほぼ使われた感じでウキウキ)。

結果として、この映画企画は、K.S監督によって映画化され、カルト的人気作に。
この制作過程の物語は「地方発の素人集団による映画企画から伝説まで」としてマジNHKでいけると思う。

自分は途中で企画から抜けたのであれですが(カノジョと離れたくなかった)、K.S監督によってゼロから再構築されたので、実際わたくしの仕事はただのツカミ。
しかし、この企画書が製作会社に評価されたわけッス。

また当時は、演劇ライター、ゲームライターとして業界に多くコネがあり、それも大きかったらしい。

実際、すぐに任天堂やカプコンなど、付き合いのあるゲーム関係者に即メール。
全国的大人気だった劇団のプロデューサーさんや、関西の仲のよかった劇作家さん(彼らはいまや全国的に有名な演出家に、ホンマ当時売れると思った人たちが、みんな雲の上)にも連絡し、即企画提出可能なストーリー探し。

こだわりさのなさ……については、自分の作家性とでもいえばいいのかな。

採用作家さんの多くが「自分が最後まで書きたい」「英訳段階で直されるのはイヤ……」と意見をのべるなか、
「いやぁ、全然直されてもOKです」「部分参加でもOKです」みたいな脚本家は面接で珍しいといわれた。

■ 有名ハリウッド監督の最新作に関われるなんて……と実感する日々がはじまる

はじめの仕事は、某ゲームの映画化で、監督はサム・ライミ氏で確定。

当時のNHKで、秋葉原を散歩するサム・ライミ監督の番組があって、次回作は某ゲームの映画化とナレーションされていたと覚えているし、その某映画製作会社のリリースでも制作中映画タイトルとして紹介されてた。

いやぁ、マジなのよ、マジなのよ、ホンマ。
地方の無名なシナリオライター希望者みたいなヤツが……、いまハリウッドに関わっている!
わたくし、いま書いている!

というわけで、依頼されたゲームの映画化に向けて、資料探しで図書館通い。
メーカーさんにも非公開資料くださいとメール。

そんなとき、プロデューサーさんからメールきた。

「来週カンヌから帰ります。米のプロデューサーがたたき台をみたいというので、途中でもいいのでプロット送ってください」

うぎゃーーーーーーーーーーーー。

もしかして、あのプロデューサーかいな!

テンションアップー!!!

そこで、宮本武蔵を主人公に、織田信長が1604年までとある理由で生きていたという設定で、ゲームっぽく、ブルース・リーの『死亡遊戯』よろしく、ダンジョンと化した天守閣をひとつひとつ解決していくプロットを提出。

物語は関ヶ原の合戦前夜からスタートだ。

もちろん、その後もハリウッド映画になりそうなゲームや演劇ネタ探しも含めて、『古事記』『日本書紀』を原作にした企画なども提出。
いまならNetflixでいけそうな企画だったかもしれぬ。

まさに夢のような日々であった。

だってだって、企画書のキャスティングイメージで、ハリソン・フォード!と書いてもいいのだ。
ハリウッドで仕事するわけだから、ありえない話じゃない。
予算も使えるので『スター・ウォーズ』だっていける。

これは、当時の日本大御所な脚本家さんでもできない芸当。
マジで夢の世界。

こんな生活が3年は続いた。

しかし、新たな編集ライターの営業もせず、いくつかの雑誌連載だけで、生活はギリギリになっていく……。
企画もシナリオも通らないとお金にならない。

いま思わなくても、バカバカバカーーーー!

フリーランスは随時、新規の仕事いれないと、
あとで絶対に大後悔するのだーーーー!

ホンマ夢の世界からの社会復帰に時間がかかった。

■ ハリウッドの脚本料は平均1億円だから、3年で1本通れば食えていける!?

ほんで、そのとき考えていたのが、これだ。
当時のハリウッド脚本料は、平均1億円。

もちろんハリウッド映画向けの完璧な企画書は書けない。
英語シナリオの仕様も当時は知らないし。

プロットを書いても、シナリオを書いても、日本語 → 英語化の段階で、他の英語圏の脚本家さんが参加し、ハリウッドのメインシナリオライターに引き継がれることになっていた(だから、こだわりのある脚本家は難色を示していたわけ)。

つまりハリウッド脚本料の1億円というのは、この最後の〝メインライター〟のギャラであって、
それでも、そこそこ完成度あげて、海外に引き継げば、企画から初期シナリオだけでも数百万円にはなると考えていたのだな。

根拠はないけど。

当時は、まだ〝2時間シナリオ〟を書くだけなら、3週間でいけるという筆力がギリあったし。
3年で1本でも企画が通れば、それで雑誌連載含めて、最低限食えると思ってた。

しかし、何も進まずホントに3年が過ぎていた。

もぉーーーーいま思わなくても、バカバカバカバカーーーー!

そりゃあ、もっとガンガンやれば、ハリウッド企画もより進んでいたかもしんない。

任天堂も別の〝超ーーーーー大きなコネ〟を使えば、トップダウンでもっと強く企画を押せたかもしんない。

いま思えば、気合がいつも足りたいなのであった。
それは、昔からずっとで、自分の欲のためだと、なんか頑張れない。
困るのが自分だけだったら、なんかスイッチが入らない。

あだち充病だ(これ分かる人は親友)。

これがガチガチの熱い新人だったら毎日のように企画やプロットも提出していたであろうし。
より濃い3年間だったに違いない。

わたくしはなんか淡々と夢見ていた。
熱だった。

■ あるとき、夢の3年間が終わる - ハリウッド企画は中止となり、同企画は……

そののち、当初の映画企画は、その映画制作会社が他社に買収されることになり、すべてがゼロになった。

「ハリウッド映画はダメになりましたが、日本映画を作ることになりました。企画お願いします」というメールが届いた。

当時はいろいろとコネがあったので、別の製作会社に持ち込もうとか。
そもそも〝無冠〟だったので、シナリオコンクール頑張ろうと思ったりした記憶がある。

さらにおもしろいのは、当時のプロデューサーたちがまとめて退社して、のちに連絡不能に。
業界ではよくあることらしいけど。

あの当時、いっしょに仕事をしていたプロデューサーさん、まだこの業界にいるのだろうか?
某氏、いまだ夢の燃えカスを眺めている瞬間があるんだったら、また共に映画作れないかなとも思う。

燃えカスをほじくりたい。

だって、当時ハリウッドと交渉していた数少ないプロデューサーさん。

いまだわたくしはシナリオライターとして無名で実績なしだけど、あの頃より企画書もうまいし、プレゼン能力あるし、AIあるし、
今年はマジでひさびさに脚本書きます。

せめて〝筆力〟は少し戻します。

当時のコネはほぼ消滅し、メールも名刺もぜんぶ火事で燃えてしまったので、連絡先も分からないけど。

のちのち現場で「えーー、あのときの◯◯さん?」「わたくし、やっとここまで来ました、あのときはすいませんでした」と数年後に言葉を交わしたい。

そりゃあ、あの頃の〝ハリウッド熱〟がくることはもう人生ないだろう。
しかし、3年間も毎日ワクワクした日々は、自慢してもいいと思うし、この経験はなにかで生きるかもしれない。

■ 蛇足:オリジナルゲーム企画書はいまもいけるぜいと思う

当時、映画製作会社に提出した「オリジナルゲーム」の企画書を実現したゲームはいまだないように思う。

当時はなかったスマホ向きだと思うのだが、大昔の世界的ゲームと操作感が似ていて気持ちいい。

さらに大昔、ソニー・コンピュータエンタテイメントのコンテストの面接までいった〝重力〟をテーマにしたゲーム企画もいまだないように思うけど。

ともに、またゲーム企画コンテストあったら、燃えカスをいじりたい。


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