今日の自分と、明日の自分

 そういえば、小さなころ、ドラえもんの映画を観て、ちょっと怖いなあと思ったことがあったなあ、とふと思い出す。

 どんなストーリーだったかは覚えていないものの、印象に残っているのは登場する人々の宇宙服みたいなヘンな恰好と、空を飛ぶ車と、ボタンを押すだけでお料理が出てくる四角い箱。ドラえもんは22世紀だか23世紀だかの未来からやってくる設定だったと思うけれど、その上その映画はまたもっとその先の未来についてのお話のような気がする。

 ともあれ私は80年代の生まれで、世間は間もなくやって来る21世紀という新しい時代に、さまざまな希望と明るい未来を託しているんだろうことは、私も子供心に感じていた。そして、どうしてそう思ったのかは謎だけれど、ある日21世紀という時代に入った瞬間、目を覚ましたその日の朝に、きっと身の回りのものがすべてその映画で見たような、未知の便利な道具や超最先端の生活様式に変わってしまうんだ、と思い込んでいた時期がある。そして、それがきっととっても便利で快適なものであることは間違いないはずなのに、きっとその生活を心から楽しめないだろうなと思っていた。この違和感というか、決まりの悪いような気持ちがしばらくずっと離れなかった。

 それから数年、世間が大騒ぎして迎えた21世紀の初日、目が覚めた時に一瞬ドキッとしたこともよく覚えているけれど、もちろん前の日に着たパジャマのままで、何も変わってはいなくて、なあんだいつものままじゃんね、と。ちょっぴりのがっかりとでも心の奥ですっごくホッとしたことも覚えている。

 「アフター・コロナの世界は、、、」「コロナ後の世の中は、、、」新しい生活様式や社会の在り方が語られてきたが、4月5月の、いっときのまったく先の見えない状況からは、また違った景色が見えていることは確かなように思う。

 「いつ終わるんだろう」「いつ元の生活に戻れるんだろう」、そうやって不安を見えない未来に投げつけながら過ごす日々はとっても苦しかった。だって、かったい壁に投げつけたボールは、まっすぐに勢いをもったまま跳ね返ってくるだけだから。どうやって終わるのか? ある日突然「今日からアフター・コロナの世界ですよー」とアナウンスがあったところで、きっと何も変わってはいないと思うし、急に元の生活が舞い戻ってくることを期待しない方がいいと思っている。小さなころの自分のように、ある日起きたら突然ドラえもんの世界になっているなんてことは、やっぱり、ない。

 自分は毎日定時での出社というルーティーンは変わらず。平日の通勤のリズムが安定していたからこそ、週末のおうち時間とのバランスが取れて、さほど苦にはなっていない。むしろ、行動範囲が限られて外的刺激が少なく、人との連絡も最小限になると、最初さえ感染症に対する不安に覆いつぶされそうな時期もあったが、気が付くと心の奥が落ち着いてきて、Calmな状態になっているのを感じた。

 朝起きて、会社に行きいつもの同僚と顔を合わせ、帰宅してシャワーを浴びて、夕飯を食べたらあとはもう眠るだけ。会社で飲む朝のコーヒーを楽しみ。午後は、今日の夕飯を楽しみに。週末の作り置きおかずを並べるだけの質素な食卓だけれど、毎日同じものでも飽きない。おうち時間に、さらにクローゼットを整理して、出番のない洋服たちを手放し、4段の衣装ケースをひとつ処分した。

 ああなんて、簡単な生活。派手なイベントごとは要らない、映える豪華な御馳走も要らない。余分な買い物も要らない。それでも自分の心がとっても落ち着いていることに気が付いた。一歩外に出れば、感染症のリスクと共に歩く毎日。できる対策をしつつも、それでも自分でコントロールできることは限られている。遠い未来にばかり目が向くと、無力感、失望、自己嫌悪にすら陥る。だからこそ、おうち時間は自分で自分の世話ができることに、とっても満足しているんだろうなと思う。今日の自分と明日の自分のために、生活しようと思う。そのぐらいがちょうどいいんだろうなあと、つくづく感じながら、6月がはじまってしまいました。

 

 


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