
纒向の大型建物Dは出雲大社の原形:卑弥呼にそぐわぬ開放性
奈良県桜井市にある纒向[まきむく]遺跡の大型建物のARを体験しました。
アプリをスマホにダウンロードして、現地で標識のマーカーを読み込むと、トップ画像のような風景がスマホ画面上で見られます。トップ画像は、右奥が建物D、中央が建物C、手前が建物Bと呼ばれます(YAMATO桜井周遊ガイド画面(2024年10月)より転載)。
群馬県黒井峯遺跡のVR(榛名山[はるなさん]噴火など)は画面全部がCGですが、ARは現実(現在)の風景にCGを重ね合わせます。
※YAMATO桜井周遊ガイドのチラシ(桜井市)
※VR:Virtual Reality=仮想現実/AR:Augmented Reality=拡張現実
纒向遺跡の大型建物について、寺沢薫さん(纒向学研究センター)は、以下のように述べています。
▶建物の復元をおこなった黒田龍二氏<神戸大学>は建物Bを楼観風、建物Cを伊勢神宮系の神殿風、建物Dを出雲大社系の神殿の機能をもつ宮殿と考えている
▶私<寺沢氏>は建物Aと井戸を土地神と農耕のための祭儀用施設、建物Bを楼観、建物Cを神殿、建物Dを大殿(宮室)と考えている
※引用の< >は僕が補った個所です。
※引用は、見やすいように文章を▶で改行します。順番は入れ替えていることがあります。
大型建物の復元にはどのような根拠があるのでしょうか。黒田さんの著書『纒向から伊勢・出雲へ』(学生社、2012年)を読んでみました。
結論からいうと、本書を読んで、纒向の大型建物の復元の根拠がだいたい理解できました。引用がとても多く長くなりますが、黒田さんの説明を紹介したいと思います(引用元の記載のないものは本書からの引用です)。

復元についての黒田氏の考え方
黒田さんは、本書の目的について、以下のように述べています。
▶ここ<本書>では、神社、建築、祭儀の面から、纒向遺跡は記紀の記述と符号する初期ヤマト王権の王宮であることを示したい
▶それが真実であれば、<伊勢>神宮と、出雲大社の始まりが与えられたことを意味し、そういう条件を加味した<伊勢>神宮の像、出雲大社の像が描き出せるはずである
▶古代史上の問題である邪馬台国論、国家論、社会構成史論、天皇論などは扱わない
▶柱穴しか残らない構築物の姿を完全に復元することは不可能である。正確にいうと、それが正しいかどうかを検証することが不可能である
▶何も分からないのかというとそうではない。先人たちも我々と同じ地面に立ち、同じ重力とそう大きくは変わらない自然条件のなかで仕事をした。道具や材料もだいたい分かっている
▶その中で考え付く範囲の合理的な方法で構築したはずであるから、その痕跡である柱穴の配置と形状から、ある程度までの推測は可能なはずである
▶著名な遺跡も含めて、全国で行なわれている復元建物においては、復元根拠や手順、妥当性がどの程度のものなのかという説明はほとんどされていない
▶これでは、そこを訪れる一般の人々は、何をどこまで信頼してよいのか分からない。…復元が学説であるためには、復元考察の過程が明晰に記述される必要がある
▶それは少数の建築専門家だけでなく、興味をもつ一般の人々に理解され、批判されるものでありたい
▶私<黒田氏>は、復元するときには極力その復元根拠と方法、<復元した形態以外の>他の形態の可能性を記述することを心がけている
▶纒向遺跡や出雲大社の復元は建築学的な方法論によっている。これは一見難しそうに見えるかもしれないが、予備知識はそれほど必要ではないので、ぜひ一緒に考えていただき、検証していただければ幸いである
復元の根拠の説明があるのは、とてもありがたいです。最近は、いくつかの遺跡で根拠が説明されているようです。
【復元根拠の説明事例】
佐賀県吉野ヶ里遺跡はHPで説明しています。
(例)北内郭~まつりごとの場所 → 復元の考え方・経緯等
鳥取県妻木晩田[むきばんた]遺跡では「妻木晩田遺跡の復元建物」というパンフレットを配布しています。復元は、建物跡の形・大きさ、焼失住居、建築部材、絵画土器の検討をもとに行っているとのことです。とてもわかりやすい内容なので、できればHPでも紹介してほしいです。

復元で抱いていた3つの疑問
纒向遺跡の大型建物について、僕が知りたいと思っていたのは、主に以下➊➋➌の3点です。
➊大型建物はどうして王宮だといえるのか、➋建物Dは本当に東西4間なのか
まず、➊大型建物はどうして王宮のような重要な建物だといえるのか、➋それと関連して、最も大きい建物Dは、建物跡の西半分が消失しているが、その西半分がどうして東半分(柱間2間=6.2m)と同じ広さで、全体が東西4間だといえるのか、です。
僕がどうしてこのような疑問を抱いていたかというと、纒向遺跡の発掘に携わった関川尚功[ひさよし]さん(元・橿原考古学研究所)が、以下のように指摘しているからです。
▶最も規模が大きく中心的とされる建物Dについても、主柱の半数以上が失われているため、建物の全体像については理解が及ばないところがある
▶主柱の多くが欠失しているのは、その後に築かれた…特に<古墳時代>前期の大きな区画溝による掘削のためである
▶遺構の中心になるような重要な建物であれば、その跡があまり時間をおかずにいくつもの遺構によって簡単に壊されるようなことはないであろう
▶ここは他にも、各時期の遺構の造営が頻繁に行われている
▶はたしてこの場所が纒向遺跡の中枢ともいえるような特別な地点であったのかは明らかではない
▶推定復元の結果が先行しており、積極的評価が困難なところがある

建物Dの西側(赤丸部分)、ベージュ網かけが区画溝になります。関川さんが「主柱の半数以上が失われているため、建物の全体像については理解が及ばない」と述べるのは、この部分を指します。
しかし、黒田さんの説明を読んで、全体が東西4間(西半分も柱間2間)であれば、最も合理的な建て方になるということだと理解できました。もっと早く黒田さんの著書を読んでおくべきでした。
黒田さんは建物Dは高床建物であること、正面柱間が偶数(主柱が5本だから柱間は4間)であること、内部空間が広いことなどから、出雲大社と親近性があるとしています。
さらにおもしろいことがわかりました。出雲大社の祭祀の特徴は、本殿内に国造※はじめ祭祀者が入って祭祀を行うという開放性にあるそうです。だから出雲大社本殿は巨大で開放的です。建物Dも同様だったと推定できます。建物Dの開放性は、卑弥呼の閉鎖性とは相いれません。
僕は、纒向は大陸や九州との交流の痕跡が希薄で、魏に遣使した卑弥呼の都ではありえないと考えています。この大型建物も卑弥呼の王宮とは考えられません。纒向は卑弥呼の都ではないという思いをますます強くしました。
詳しくは後述します。
建物Dは3世紀の日本列島で最大級であり、初期ヤマト王権(プレヤマト王権)※の王宮であることは間違いないと思います。ここが卑弥呼の王宮であるなどというから、うさん臭いのであって、初期ヤマト王権の王宮だと考えれば違和感はありません。
※黒田さんは大型建物の年代を「初期ヤマト王権」と呼んでいます。寺沢さんが「卑弥呼共立=ヤマト王権成立」としているので、その説にもとづいているのだと思います。「ヤマト王権成立」をどう定義するかの問題ですが、僕は箸墓古墳の築造をもって「ヤマト王権成立」とし、年代を300年前後と考えています。ですので、大型建物は「プレヤマト王権」「ヤマト王権の前段階の纒向の勢力」の王宮ということになります。

【用語解説】
※国造[くにのみやつこ、こくそう、こくぞう]:国造はヤマト王権の下で地方を治めた官職だが、出雲国造は出雲大社の祭祀も司った。
➌建物Cは神殿か
疑問の➌つ目は、建物Cが「神殿」とされていることです。
寺沢さんが「神殿」をどういう意味で使っているかわからないのですが、僕は神殿とは神様がまつられていて、人々がおまいりする建物だというイメージです(イメージは人によって違うかもしれません)。
「神殿」「宮殿」「祭殿」「大殿」「本殿」「正殿」「拝殿」「宮室」「王宮」…神社によっても呼び方が様々なのだと思いますが、論文や書籍では、言葉の意味は明確に定義して使うべきだと思います。
僕は「王宮」という言葉を使います。「王宮」とは王権の祭祀と政治を行う場(祭政拠点)であり、王の居館(生活拠点)を兼ねているものとします。
僕が建物Cが神殿ではないと考える理由は、建物Cは建物Dの裏に建っているからです。建物Cからは建物Dでさえぎられて、聖なる山である三輪山を望むことができません。そんな建物に神様をまつるはずがないと思いました(僕は不勉強で、他の神社の建物の配置について、まったく知見がありません。他の神社ではどうなのでしょうか)。
建物Cからでは三輪山がほとんど見えないことは、現地でARを体験して改めて確認できました。

しかし、この点も、本書を読んで納得できました。本書で一番納得できた点です。建物Cは宝鏡を保管するクラだったのです。クラであれば王宮の裏にあってもおかしくありません。こちらも詳しくは後述します。
建物Dの東西柱間4間の根拠
まず➋番目の、建物Dの西半分について、黒田さんの説明を紹介します。黒田さんは復元が確実かどうかのレベルを①②③の3段階に分けています。
▶復元作業では多くの可能性のなかから、結果的にひとつの形態を提案する
▶結果よりも重要なことは、各段階でどの程度の論拠と確実性が踏まえられているのか、提案以外にどのような選択肢があるのかを示すことである
▶確実性については次の3段階がある。学問的に重要なのは①②である
▶①確実なこと
▶②類推されること--確率の高い推定。他の事例を参照した推定
▶③推定されること--いくつかの可能性のなかから具体的な形を決定するために選んだ形態で、変更しても学問的に大きな問題ではない
建物全体と建物Dについて、①と②は以下のとおりとしています。重要なのはd項とf項※になります。
黒田さんは「<根拠は>一般の人々に理解され…るものでありたい」「予備知識はそれほど必要ではない」と述べているのですが、残念ながら予備知識がないと理解はできません。不十分ではありますが、簡単な用語解説を付記しました。
※本書では、確実なこと、類推されることを「A項~G項」に分けていますが、「建物A~建物D」と紛らわしいので、ここでは「a項~g項」と記載します。
※③の「推定されること」の引用は省略します。
【四棟全体】
①確実なこと
a四棟の建物が中心軸を東西軸に揃えて並ぶ
【建物D】
①確実なこと
b高床建物である
▶南北柱筋で大きい柱掘形<柱穴>と小さい柱掘形が交互に配置される。堀形の大小は柱の長短に対応すると考えるのが合理的である。大きい柱掘形は…主柱、小さい掘形は…床を支える床束であり、それ以外の可能性はほぼない
c南北規模は、柱間四間である
▶発掘された遺構の西側は…消失している。北側は未発掘であるが、南側は確定している。a項から建物は東西の軸線に対して対称と考えられるので、南北規模は発見された四間、これより北側には建物は伸びていないと推定される
dどのような規模であっても、総柱構造※となる可能性が高い
▶主柱の掘形は長方形で、方向がやや系統的に異なる。これは柱の種類にかかわるとは考えにくく、建てる時の方向を示すものだろう。深さはいろいろだが、系統的ではない。したがって、身舎[もや=建物の本体]柱と庇[ひさし]柱の区別、棟持柱[むなもちばしら]とその他の柱の区別はつかない(注)
▶(注)身舎を囲む柱が身舎柱で、庇の外側を囲う柱が庇柱である。その区別は、柱配置から推定されるほか、掘立柱ならば身舎柱の方が掘形が深く大きいと考えられる※
▶(注)棟持柱は棟木まで達する柱で…掘形が深く大きいと考えられる。また柱の位置からも棟持柱かどうかが推定される※
▶以上のことに加えて、発見された部分は総柱構造※なので、以下で検討する東西規模を三間、四間に復元した場合も柱の省略や、太さの変化を想定することが困難である
▶身舎柱と庇柱の区別、棟持柱と一般の柱の区別がつかないということは、身舎と庇の区別はなく、棟持柱もないと判断せざるを得ないことを示している。…この建物の柱配置は…すべての柱を等価と考えざるをえない
▶消失した部分を復元するときに、発見された部分と同じ構造とするか、異なる構造とするかの選択がある。以下では同じ構造で推定復元している。異なる構造とするなら論拠が必要である
▶柱の種類は一種類となるので、消失部分の総柱の位置から柱を省略したり、位置を変えたりする理由がない。仮に試みたが、意味のある形態にはならないことを付記しておく
【用語解説】
※総柱[そうばしら]/側柱[がわばしら]:側柱は建物の外壁に沿って柱を立て上屋を支える構造(下図左)。それに対し総柱は、建物の外側だけではなく内側にも柱を立て多くの柱で建物を支える構造

※棟持柱[むなもちばしら]:建物の左右の屋外に立て棟木を受ける柱。建物Cには柱筋から少しずれた棟持柱の柱穴がある。大阪府池上曽根遺跡の大形建物1も棟持柱の大きな柱穴がある(下図左)。それらに対して、纒向の大型建物Dには、棟持柱とその他の柱の区別がない。

※身舎[もや]/庇[ひさし]:身舎は建物の本体、庇は向拝[こうはい]ともいう。ひねりまんさんのブログ『甲信寺社宝鑑』の解説「向拝と母屋(身舎)」が写真入りでとてもわかりやすいです。
②類推されること
e東面が正面である
▶B棟の西の柵に明確な出入口がない
f東西の規模は柱間四間である
▶発掘されたのは東西二間分で、西側は消失している。可能性としては東西二間、三間、四間の三通りがあり、五間とすると西の建物Cに接近しすぎる。以下で二間、三間の可能性を検討するが、結果は否定的である
▶(イ)二間の場合、南北に細長い形状が不自然である。東から二筋目の柱筋が棟通りとなり、ここに棟持柱を立てれば合理的で簡単な構造となる。しかし、d項および柱筋からずれる柱がないことから、棟持柱はないと結論される。したがって、東西方向の梁の上に棟木をささえる束[つか]ないし扠首[さす]※が必要となるが、柱筋を少しずらして棟持柱を立てる方がはるかに簡便なので、これは不自然である。東西二間の可能性は否定される
▶(ロ)三間の場合、東から一間半の位置つまり東西の中央が棟通りとなるが、この位置に柱はないので、やはり東西方向の梁の上に棟木をささえる束ないし扠首※が必要となり、不自然である。南北柱間は四・八mであるから、東西もこれに近い柱間四・六mの二間とすれば、棟持柱を立てて簡単な構造とすることができる。しかし、d項の原則による復元では東西は柱間三・一mの三間となる。このことは東西が三間ではないことを意味している
▶(ハ)東西四間とした場合は大きな欠点がなく、東西柱間は四間と結論される。梁間が四間あると棟は高くなり、棟持柱は長大なものとなるので、梁[はり]の上に別構造で小屋を組むほうが合理的である。小屋構造は束立てもしくは扠首組となる。この構造は遺構から棟持柱が確認されないこととも合致する
【用語解説】
※棟木[むなぎ]:屋根の一番高いところに取り付けられる横木
※束[つか]・扠首[さす]:棟木を支える伝統構法には、棟持柱、束立て、扠首組の3つのタイプがある。

(東京都建築士事務所協会の会報誌『コア東京』、2019年4月)より転載
黒田さんの説明はなかなか理解が難しいのですが、東西の柱間が4間である(2間・3間ではない)ことの根拠を僕なりに整理すると以下のとおりです。
建物Dには棟持柱がない(=棟持柱の柱穴がない=柱の種類の区別がつかない)
東西2間でも3間でも、東西の中央に棟木を通すことになるが、棟持柱で支えるのが合理的。しかし棟持柱の柱穴はないので、2間・3間は否定される
東西4間の場合は棟が高くなり、棟持柱は長大になるので、梁の上に小屋を組むほうが合理的。棟持柱はないので、小屋は束立てまたは扠首組となる
もっと簡単にいうと「建物Dには棟持柱の柱穴がない」ことから、東西4間が最も合理的な構築方法だと推定できると理解しました。
(ロ)の後半は、3間の説明なのに「柱間四・六mの二間とすれば」とあって理解できないのですが、棟持柱がないことから、3間が否定されることは同じだと思います。
【参考:最大級の建物】
建物Dは東西柱間4間となり、弥生時代の日本列島で最大級の建物となります。古墳時代になると、石川県万行[まんぎょう]遺跡でさらに大きい建物跡が出土しています。海沿いにあり、倉庫と推定されています。
纒向遺跡 建物D(弥生終末期):東西柱間4間(12.4m)×南北柱間8間(19.2m)=面積238m2
池上曽根遺跡 建物D(弥生中期後半):6.9m×19.2m=133m2
石川県万行遺跡(古墳前期):320m2
建物Dと出雲大社の開放性↔卑弥呼の閉鎖性
黒田さんは建物Dと出雲大社本殿の類似性を指摘しています(リンク先は出雲大社HP)。
▶大型建物Dは、天皇の居住、祭政用建物と考えた
▶これは建築的特性である高床建物、正面柱間が偶数の四間、広い内部空間と、そして用途としての特性であるヤマト王権の中枢建物であるという想定から導いた結論である
②類推されること
g内部の間取りは出雲大社に類似する
▶c項から<東から見た>正面は偶数柱間<主柱が5本だから柱間は4間>である。d項から身舎と庇の区別がない。以上二点は、現存出雲大社本殿と強い親近性がある
▶出雲大社の江戸時代以前の祭儀、および古代の文献資料からも出雲大社との親近性が指摘できる
▶建物Dはこの時期<3世紀>最大の床面積を持つ建物である。…初期ヤマト王権の王宮であることは間違いないだろう
▶しかし、正面が四間で、寺社、王宮の中心建物としては異例である。…神社などの拝殿もやはり中軸線上に柱が来ることはなく、奇数柱間が常識である
▶神社の場合も、本殿の外部から参拝するのが通例であるから、本殿の正面中央に柱はないのが普通である
▶そのなかで出雲大社本殿のみは、正面二間つまり正面中央に柱が来る建物である
▶そうすると建物Dも殿内で祭祀が行なわれる重要な建物…という推定がなりたつ
本殿に祭祀者が入り祭祀が行われた
▶出雲大社については、その昔は本殿が巨大で東大寺大仏殿を凌ぐ高さ十六丈であったという伝承、全国の神々が神無月には出雲に集合するという信仰、出雲大社を管掌する国造※家は古い家柄で、いまも神に近い存在であることなど話題にことかかない
▶<出雲大社の>いろいろな特性のなかで、神社祭祀の問題、建築の問題として、本殿内で祭祀が行なわれていたことも特筆に値する
▶かつて出雲大社本殿の殿内で行なわれていた祭祀は、わが国の神社祭祀の上できわめて注目すべき祭祀方式である
▶現在の神社祭祀の常識では、本殿に祀られる神に対して、穢[けが]れをもつ我々人間は一定の距離をおいて祭祀を行なう。本殿の扉を開けたり、内に入ったりするのは、祭礼時や遷宮時で、それも厳しい潔斎を経た宮司や神職などに限られる
▶江戸時代以前の出雲大社本殿内で国造※が行なっていた祭祀は特異なものである
▶「本殿内及び座配の図」※も興味深い図である。…奥…に座るのが国造<であり>国造は神のごとき存在であることがわかる
▶時代を遡れば国造と大神とが重なる度合いはさらに強いはずであるから、<古代にも>神を体現した国造が司る饗膳は本殿で行なわれていたのではないだろうか
▶そう考えてはじめて本殿の大きさと開放性が合理的に理解できる

(『古代出雲大社の祭儀と神殿』(椙山林継他、学生社、2005年)より転載)
▶出雲大社の論争のなかで、本殿の巨大さはその中心的な話題であり続けたが、高さが十六丈であったかどうかにばかり関心が向けられ、なぜ大きいのかという議論はなされなかった
▶本殿がたんに神を祀り、御供を捧げるためのものであるなら、この広さ、大きさは必要がない
▶出雲大社本殿は…<殿内で行事が行なわれるという>使用法に適するように作られたものである
▶古社とされる神社本殿では神職が入ることすら稀である。伊勢神宮、下鴨神社、上加茂神社、春日大社の本殿は、正面に扉があるほかは板壁で、きわめて閉鎖的であり、内部で行事が行われることもない
▶それらに対して、出雲大社本殿においては奥が上段、手前が下段の構成で、下段正面の東柱間は扉、西柱間は蔀戸[しとみど]である。この開放性は異例といわなければならない
▶このような建築構成と広さがあるために「座配の図」の光景がごく自然なものとなるのであるが、上段奥に国造すなわち人間が座し、下段の方を向くという事態はほかの神社本殿ではありえない
▶それは出雲大社最大の祭礼において行なわれるのであるから、その祭祀自体が古く、根源的である可能性が高い
▶奈良時代以前には出雲大社の本殿は記紀に「みあらか」<御舎=宮殿>と表現されるように、われわれの通念である神社本殿と考えないほうがよい
▶むしろ豪族居館の一種と見たほうがよく、国造や家臣団の生活感があるものだったろう
▶国造は「みあらか」とその周辺で司祭者としての生活を行ない、また家臣団や他国の使いに謁見[えっけん]したであろう。ちょうど「座配の図」のように
整理すると以下のとおりです。
出雲大社本殿が巨大なのは、殿内で行なわれる祭祀のためである
出雲大社では国造・上官[じょうがん=上級神職]はじめ祭祀者が殿内に入って祭祀を行う
その祭祀形式と建物構造の開放性は異例である
出雲大社本殿は国造や家臣団の生活感のあるものだった
纒向の大型建物Dは、高床建物、正面柱間が偶数の4間、広い内部空間など、出雲大社と親近性がある。建物Dも殿内で祭祀が行われる重要な建物だったと推定できる
一方、魏志倭人伝では、卑弥呼はよく知られているとおり、以下のように記述されます。
▶倭国はもと男子を王としていた。七、八十年すると、倭国は乱れて、(国々が)互いに攻撃しあうことが何年も続き、そこで一人の女性を共に立てて王とした。名を卑弥呼という
▶<卑弥呼は>鬼道を行い、よく人々を眩惑した
▶歳はすでに年配であるが、夫を持たず、男の弟がおり国の統治を助けている
▶王となってより以来、<卑弥呼を>見たことのある者は少ない
▶婢千人を自分に侍らせ、ただ一人だけ男子がおり飲食を給仕し、言辞を伝えるために出入りしている
▶<卑弥呼の>居る宮室は、楼観と城柵を厳しく設け、常に人々がおり武器を持って守衛している
卑弥呼は巫女的な王であり、人々の前に姿を現すことはほとんどありませんでした。
建物Dは出雲大社と親近性があり、構造は開放的です。建物Dも王の生活の場であり、開放的な形式で祭祀を行い、部下や他国の使いに謁見した場だったと推定されます。
建物Dは卑弥呼の王宮とは考えられません。纒向を卑弥呼の都と考えながら、建物Dを出雲大社に親近性のある建物として復元することは、自己矛盾です。
冒頭に述べたとおり、纒向は大陸や九州との交流の痕跡が希薄であることに加え、大型建物も卑弥呼の王宮とは考えられないことがわかりました。纒向は卑弥呼の都ではない※ことがより明確になったと考えます。
※僕がこのように述べても反論する人がいるでしょう。「卑弥呼の宮室は別にあった」「建物Dの殿内祭祀は男弟が行った」とかなんとか…。しかし、建物Dのほかに宮室らしい建物跡は見つかっていません。魏志倭人伝には卑弥呼とは別の人物が祭祀を行ったというような記述もなく、男弟が神のごとく上段に座る祭祀はありえません。僕は復元の根拠と魏志倭人伝から導かれる自然な解釈を述べています。反論するのであれば、想像ではなく、根拠にもとづいてお願いしたいと思います。
纒向遺跡のARの解説では、キャラクターのひみこちゃんとハシモトさん(纒向学研究センターの橋本輝彦さんがモデル)が、以下のような会話を交わします(アプリをダウンロードすれば、現地でなくても解説を聴くことができます)。
大王の住まい
▶ひみこちゃん:どうして大王が住んでいた建物だってわかるの?
▶ハシモトさん(纒向学研究センターの研究員):なによりまずその大きさですね。…一番大きな建物は…広さが130帖といったらイメージできますか。…高さもかなりで、3階建てのビルぐらいあったと考えられます。そんなりっぱな建物は当時の日本列島には例がないので、強大な権力をもった人、つまり大王の住まいだったに違いないと思われます
▶ひみこちゃん:卑弥呼の家かもね
▶ハシモトさん:卑弥呼は3世紀の前半を生きた人です。この建物が建てられたのも3世紀前半だから、ここに卑弥呼が住んでいた可能性は十分あると思いますね。もちろん、纒向遺跡が卑弥呼のいた場所だったらの話ですけど
アプリでのハシモトさんの説明はわかりやすいのですが、残念ながら、建物Dに卑弥呼が住んでいた可能性はありません。纒向は卑弥呼のいた場所でもありません。
もっと端的には、出雲大社との親近性を指摘するまでもなく、巨大な王宮は殿内で多人数による祭祀や謁見をはじめとする政務が行われたことが想定され、卑弥呼の王宮にはそぐわないといっていいと思います。
建物Dと本殿は外見でなく本質が同じ
既に感じている人もいるかと思いますが、復元された建物Dと出雲大社本殿は似ているわけではありません(リンク先は出雲大社HP)。これについて黒田さんは以下のように述べています。
▶出雲大社本殿は大社造という本殿形式に分類されるが、纒向遺跡の建物Dは大社造ではない。…建物Dと出雲大社本殿が似ていないという問題については、少し説明が必要である
▶復元設計には自由度があるので、出雲大社本殿に似せることが至上命題であるなら、もっと似た形に設計することは可能である
▶しかし、私は、どこかの建物を念頭に置くことなく、意図的に柱痕跡が示す最も自然な形態に設計した
▶建物Dは身舎庇構成ではないという点、床上まで柱が立ち上がる総柱の建物である点、正面が偶数柱間である点、殿内祭祀が行なわれた建物であろう点で、出雲大社本殿と多くの共通性をもつ
▶外見や規模はむしろ大きく異なるが、建築の本質的な考え方が同じという発見は私<黒田氏>にとっては大きな驚きであった
「復元設計には自由度がある」というのは、復元しようにも柱穴からはわかりえないことはあり、そこは推定するしかなく、可能性としていろいろな形態がありうるということだと思います(黒田さんの述べる③の推定されることに含まれます)。建物Dは出雲大社に似せて復元することも可能だけれども、黒田さんはあえてそうしなかったということです。
見た目で似ていることよりも、殿内で行なわれる祭祀の内容とか、その祭祀を行うために巨大でなければならないこととか、そういった本質が重要だとしています。
建物Cはクラであり伊勢神宮に遷された
続いて、僕の疑問の➌番目の建物Cは神殿といえるのかについて、黒田さんの説明を紹介します。
▶王宮の宮殿<建物D>のすぐ背後に棟持柱建物<建物C>がある
▶棟持柱建物Cは、初期ヤマト王権の王宮にあるというだけで、伊勢神宮との関係を想起させる
▶宮殿の中で祀っていた宝鏡を宮外に出す前段階として、宮殿の背後に宝庫を作って納めるということがあってもよいのではないかと考えた
▶建物Dが宮殿なのだから、棟持柱建物Cがクラであるという推定はさほど無理ではない。そうすれば、そこに宝鏡が納められていたというのも当然の推定である。宝鏡だけではなく、その他の宝物も納められていたのかもしれない
▶王宮のクラから宝鏡を<伊勢>神宮に移したのであれば、<伊勢>神宮の正殿がクラであるのは当然である
【建物C】
①確実なこと
▶南北三間、東西一間で、北面と南面中央に柱筋より外にたつ近接棟持柱をもつ建物である
②類推されること
▶今まで多くの棟持柱建物が発見されているが、形態を決める根拠にはかけていた。まず平地式か高床式かを明瞭に判別できない
▶つぎに高床式としたときも、床上に壁を設ける伊勢神宮風の形か、壁を設けない屋根倉形式化を決める根拠がない(注)
▶(注)大阪府池上曽根遺跡で復元された大型建物の形態が屋根倉形式である。この形態で復元される前には、伊勢神宮風の床上に壁立の型式が復元されていた。このことは柱痕跡だけからはどちらとも決めがたいことを示している
▶それらと比べて、この建物Cは伊勢神宮正殿類似の形態に復元する根拠がはるかに強い
▶遺構の立地と年代とからは、ここは初期ヤマト王権の中枢部と考えられる。つまり伊勢神宮との関係が想定できるとともに、建築形態の類似が明らかである
【用語解説】
※屋根倉形式:池上曽根遺跡の大形建物1の復元のように、床上に壁を設けず、屋根で覆う形式。それに対し、床上に壁を設ける形式を、黒田さんは伊勢神宮風と呼んでいます(リンク先は伊勢神宮HP「社殿の建築」→「建築中の神明造」のイメージ図参照)。
最初に述べたとおり、僕は三輪山の見えない建物Cは「神殿」にはふさわしくないと思っていました。ですので、本書の「建物Cはクラである」という説明は目から鱗でした。宝鏡を保管するクラ(蔵・倉=保管庫)だと考えれば、建物D(王宮)の裏にあっても理解できます。ついでにいうと、建物Bはクラを守る楼観(守衛所)なのではないでしょうか。
黒田さんは建物Cは伊勢神宮そのものだと述べています。伊勢神宮の本質も、八咫鏡[やたのかがみ]を保管するクラなのだそうです。
大型建物は初期(プレ)ヤマト王権の王宮
最後に➊の纒向の大型建物はどうして王宮のような重要な建物だといえるのか、についてです。黒田さんは以下のように述べています。
▶年代、立地、規模、規格性を総合的に考えると、この遺跡<大型建物跡>はヤマト王権初期の王宮である可能性が高く、日本の歴史上きわめて重要な遺構である
僕は黒田さんの見解に賛成です。
まず、大型建物の年代について、寺沢さんや黒田さんはヤマト王権の初期といい、僕はヤマト王権の前段階(プレヤマト王権)だとしていて、違いがあります。纒向では前方後円墳が生まれており、ヤマト王権発祥の地だったことは間違いありません。卑弥呼共立→大型建物築造・廃絶→箸墓古墳築造という順番は一致しています。何をもってヤマト王権成立と見なすか、実年代をどう見込むかの違いです。
(再掲)

いずれにしても、大型建物はヤマト王権と結びつく、重要な建物だといって間違いありません。
立地については、寺沢さんの説明がわかりやすいです。
▶私<寺沢氏>たちは塀<柵>で囲まれた一群を内郭(宮室)と考え、その周辺に外郭(宮城)が存在する二重構造を想定していた
▶<発掘では>外郭推定地内に…何一つ三世紀の遺構は発見できなかった
▶二つの前向きな解釈が浮かび上がった。一つは…敷地の北側、南側、西側には旧纒向川河道が存在し、外郭推定地全体が明らかに一段高い場所にあり…もともと盛土整地されていた可能性があること、いま一つは、外郭内にまったく同時期の遺構が存在しないことが、逆にこの建物群の聖域としての機能と性格を物語るのではないかということである
▶外郭は東の入り口が上ッ道に面し、三方を川と河原で囲まれ、内郭はそのなかにひっそりと佇[たたず]む、塀<柵>で囲まれた空間である。…ヤマト王権の最初の大王宮にふさわしい立地環境と構造ではないか
規模については、建物Dは東西4間に復元され、3世紀最大の建物だったことが明らかになっています。
規格性について、黒田さんは以下のように述べています。
▶技術的な観点からみて最も評価すべきことは、少なくとも三棟が東西の軸線上に並んでいることである。今まで、弥生時代から古墳時代の大型建物はある程度発見されているが、これほど高い規格性をもつ建築群は発見されていない
▶いいかえると、世界最大といわれる仁徳天皇陵をはじめ大型前方後円墳は、きわめて緻密に設計されているのに対して、今まで前方後円墳の主にふさわしい設計水準の王宮が発見されていなかった
▶纒向遺跡の建築群は、まさに前方後円墳に葬られた王の王宮としての設計水準を有している
黒田さんも一朝一夕にこのような結論に至ったわけではなく、どのように説明するかは苦労したようです。
▶思いついたのは布団の中で、寝入りばなのまどろみが深まる直前だった
▶出雲大社は天皇の御殿に似せて作ったと古事記に書いてある。<伊勢>神宮は王宮から伊勢に遷したと日本書紀に書いてある
▶大型建物Dはこの時期最大の建物で、出雲大社の原形であり、平面も同じ。棟持柱建物Cは<伊勢>神宮そのもの<である>
僕が強いて疑問を抱くとすれば、建物Dが出雲大社の原形であり、建物Cが伊勢神宮そのものだというのは、いくらなんでも出来すぎじゃないかということぐらいです。根拠はありません。
一方、❶❷の疑問のところで紹介した関川さんの指摘は気になります。関川さんの著書は、黒田さんの著書よりもあとに書かれていますから、関川さんは黒田さんの著書を確認しているはずです。
(再掲)
▶遺構の中心になるような重要な建物であれば、その跡があまり時間をおかずにいくつもの遺構によって簡単に壊されるようなことはないであろう
▶ここは他にも、各時期の遺構の造営が頻繁に行われている
▶はたしてこの場所が纒向遺跡の中枢ともいえるような特別な地点であったのかは明らかではない
なぜ、頻繁に建て替えが行われたのか、なぜ箸墓古墳築造の時点では廃絶していたのかというのは疑問として残ります。
例えば、池上曽根遺跡の大形建物も、建物D→建物A→建物B→建物C→建物1と、建て替えられたことがわかっています。

古代に大型建物を作ることは簡単ではなかったと思いますが、王宮は頻繁に建て替えられることが多かったのでしょうか。箸墓古墳築造の前に廃絶したのは、新しい王宮がつくられたからでしょうか(部材転用のため?)。柱穴からわかることではなく、想像するしかありません。
まとめ:大型建物は卑弥呼の王宮ではない
今回の記事はまとめるのに、思った以上に時間がかかりました。時間をかけたわりには、黒田さんの説明をすべて紹介できたわけではありません。以下のような点も重要ですし、興味深い指摘にもかかわらず、紹介できませんでした。
建物Dの床上の屋根形態と小屋構造(③の推定されることに含まれます)
文献学的に、古事記、日本書紀からも、復元の根拠が見出せること
出雲大社の源流について、平安時代の島根県青木遺跡(大社造)、古墳前期の鳥取県長瀬高浜遺跡(巨大な高床建物)までさかのぼれること
出雲大社本殿の高さ十六丈説は、殿内祭祀を想定すると否定的されること、など
伊勢神宮の本質がクラであることも、本来はさらに詳しく黒田さんの説明を紹介すべきだったと思います。
最後にこの記事のまとめです。
纒向の大型建物は、年代、立地、規模、規格性から、ヤマト王権と結びつく重要な建物だったと考えて間違いない
大型建物Dは東半分(2間)の柱穴が残り、西側が失われているが、棟持柱の柱穴が確認できず、東西2間・3間は否定される。東西4間と考えるのが自然である。3世紀最大級の建物となる
建物Dは、高床建物であること、正面柱間が偶数であること、内部空間が広いことなどから、出雲大社と親近性がある
建物Cは宝鏡の保管庫だったと考えれば、建物Dの裏にあっても(三輪山が望めなくても)違和感はない。伊勢神宮と親近性がある
出雲大社の祭祀の特徴は、本殿内に祭祀者が入って祭祀を行っていたという開放性にある。それは古代までさかのぼる可能性が高い。だから出雲大社本殿は巨大で開放的な構造となった
建物Dも王の生活の場であり、祭祀を行い、部下や他国の使いに謁見した場だったと考えられる
一方、卑弥呼は魏志倭人伝で「鬼道を行い…見たことのある者は少ない」と記述される
「建物Dの開放性」と「卑弥呼の閉鎖性」は相いれない
大型建物は卑弥呼の王宮ではなかった。纒向は卑弥呼の都ではなかったことを示す
【追記】(2024/12/21)
黒田さんの科研費報告書がネットに掲載されていました。復元図2は正面4間がわかりやすいです。
「発掘遺構と神社建築を中心とする祭祀・祭政用建物の概念に関する研究」(2013年)
東京新聞と橿考研の共催フォーラムの記事です。黒田さんが「外から拝礼するのではなく、内部で祭りごとを行うので、偶数柱間で差し支えない」と述べています。フォーラムでは卑弥呼については触れていません。
「よみがえる古代の大和 神社建築の源流」(2014年)
(最終更新2024/12/27)