「茨城県に伝わる民話 第5回」(「虚空蔵尊の黒絵馬」「涸沼の親沢と子沢」「六地蔵が七地蔵に」「十二支のいわれ」「水戸の朝日山」)
むかしむかし、藤原高信という人が、村松虚空蔵尊に黒馬の絵馬を奉納しました。
それからというもの、どういうわけか、いつも農作物が荒らされるようになりました。
ある時、ある猟師があまりにも田畑が荒れるので調べてみると、ある夜、馬が駆け歩いていました。
猟師は馬をめがけて、ねらいを定め銃で撃ちました。弾は見事に胴にあたりました。それから後、田畑は荒らされなくなりました。
その後、虚空蔵尊の絵馬を見たところ、胴の中を貫通した弾痕が残っていました。
「絵馬の馬が、田んぼへ水でも飲みに行ったのでしょう」「いや、野ギツネやむじなや、イノシシが農作物を荒らすので、それを追い払ったのでしょう」「絵馬の馬は、かわいそうに死んでしまいましたね」村の人々はいろいろなことを噂しあったとのことです。
この絵馬の額は、明治33年の大火で焼けてしまいました。
水戸の黄門様が石崎(茨城県茨城町)の涸沼湖畔で鷹狩りをしました。たくさんの家来と狩人を集めて、とてもにぎやかでした。
追い詰められた鹿の群れが沼の中に入り、南の方へ泳ぎ始めました。家来たちは船を出して、この鹿の群れを追いました。
黄門様はそのとき、着ていた木綿の衣を脱いで荒縄にして、腰に巻き、縄の輪を作り、泳いでいる鹿の群れをめがけて逃げたといいます。そして、船に引き寄せ、腰にさした脇差をぬいて、鹿ののどを一突きにしました。
やがて、狩りを終えて、この岬の一本松の所で、一行は休みました。この松は2本ではなく、1つ葉の絵で枝下3丈(約9mあまり)、周囲1丈3尺(約4m)もある大木でした。松を見た黄門様は、この松の枝ぶりを面白がり、葉が1本であるのを珍しがりました。
この場所が親沢という地名だと知って、「この地、親沢なるに子なきはいかに」続けて「右手に見える突角の地を子沢と言うべし」と言われました。それ以後、上石崎の船渡坪(ふなどつぼ、現在の船渡あたり)を子沢と言うようになりました。
子を思ふ涙ひぬまの一松
渡にゆられて幾世へぬらん
黄門様は子沢を何回か訪ねて和歌を詠みました。
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