ハンプティは元には戻らない。玉子を見ると思い出す、玉子を横取りしたら、肺結核の父が喀血した本の話。
わたしはたまごが好きである。
今夜はのこりもので済ませようと思って、1品足すためにたまごを焼いたら、そのたまごだけ完食してしまった。
こどもか。
その次に、まだ食指の動く、ポタージュをのみほした。
ポタージュはカボチャが至高だと思っているけれど、ジャガイモも、なかなかいける。
さいごにのこった、たいしておいしくない、ホワイトシチューを平らげながら、これを書いている。
たいしておいしくないものは、冷凍しても解凍しても、時間をおいても、おいしくない。
冷厳とたたずむ真理。
だれかが扉のまえに立っている。
奥からの光で、影しかみえない。
顔のみえないひとはいう。時間で解決しない問題はある。
たまごは栄養ゆたかである。
コレステロールというやつが登場するまで、たまごは純粋に崇められていた。
種子とかたまごとか芽とかいう段階のものは、滋養ゆたかに決まっている。
これから育つためのものを備えているのだから。
くわえて、たまごはおいしかった。
黄色いふわふわ。白いめだま。とろけるようなメレンゲ。味のしみた煮たまご。
変幻自在、なにとでもあう。
こんな優秀なやつがいるだろうか。
おまけに安かった。
たまごと人類との蜜月は、長くつづいた。
たまごは愛でられ、冷蔵庫に、とぎれることはなかった。
さらに、時をさかのぼろう。
たまごは、クスリだった。
滋養があって、高価だったら、それはもうクスリと同義だ。
コーヒーやヒロポンがクスリだった時代もあるから、めずらしくはない。
クスリとして売られた。
そのころ、肺病が猛威をふるっていた。肺結核ともいう。
戦後になるまで、特効薬はなかった。
そのひとの体力か、天運かに左右された。
天にとられることもあれば、快癒することもあった。
患者のもとに、たまごが贈られた。これを食べて、滋養を肥やすようにと。
小学生のころ、戦前が舞台の、そのやまいの本を読んだ。
主人公は小学生で、その父が、肺病を得ていた。
父のもとにはたまごがやってきていた。立派な木箱に入っていた。
1個ずつ、しきりのある、桐箱だった。
主人公は、夜中に人目をしのんで、箱をあけた。
ひとつだけこっそり食べた。
なんておいしいんだ!
忘れられぬ、佳味だった。
だまって、また忍んだ。
どうしてもどうしても、美味だった。どうしようもなかった。
またひとつ、もちだした。
肺病の父の知るところになった。
父は、主人公を怒らなかった。
「かまわない」と返した。
数日後、父は、洗面器いっぱいの血を吐いた。
しばらくして、彼岸のさかいを越えた。葬列があった。
現代にいきる読者の小学生は、どうしても主人公がゆるせない。
死んでしまったじゃないか。
たまごで。たまごを横どりしたから。くすりを食べたから。
憤ったあげく、現代の小学生は、現代の父に、密告した。
「おとうさんでも、いいと言うと思うよ」
と返ってきた。
そうじゃない。とりかえしのつかないことをしたんだ。
死ぬのに。たまごを食べないと死ぬのに。
たまごを食べたら、死なないですんだのに。
こどものわがままで、ひと一人が、灰になってしまった。
死んだら、どうしようもないじゃないか。
いくら時がたっても、もう解決しない。
今年も暮れゆく、今にあって、たまごを食べると、ときおり思い出す。
現代の小学生の死生観は、断崖絶壁にへだてられているものだった。
ハンプティは、壁からおちたら、もとにはもどらない。
ひとは、壁をつたいながらあるいている。
たまごがわれたら、もうどうしようもない。
マザーグースの死生観は、ただしく子どもの感性なのかもしれない。
コミカルなメロディで歌うことで、不条理への慰撫になったのかもしれない。
あびるほどたまごを食べながら、おりふし思う。
烏有に帰した、あの肺病の父に、10パックでも20パックでも、贈ったのに。
たまごを、いくらでもあげたのに。
ひとが塵芥に帰したのちにのこるものは、そういうものなのかもしれない。
はるけし未来に育った、ゆかりのうすい小学生に、たまごを贈りたいと、何十年も思わせる、なにか。
▼さあ、君もたまごを食べよう!!それがハンプティへの第一歩だ!!
ハンプティは、顔がリアル風おじさんでこわい。もうちょっとゆるキャラ風にしてほしかった(苦情)。
ただの雑談と見せかけての、切なさ向上委員会でした。
伏兵はいつもそこにいます。ハンプティもいつもここにいます。この顔で。