合気道場はいくつになっても、青春を現出してくれる夢の国だということを、道場を変えるときに思い知った話。
短冊が、目の前にぶらさがっている。
こう書かれている。自分には能がない、と。
道場を変えることにした。
ああ、むりだ。もう通えない、と思ったあの日の夜のことを、現像できるくらい明瞭に覚えている。
ふつうに考えたらそりゃそうなんだけれど、もう曜日の組みようがない。
日常に占める比重が大きすぎる。
平日の退勤後に、地下鉄で道場に向かう。
帰宅して22時。そこからおふろと夕飯。始業も早いので、早く眠らないといけない。
人間そんなロボットのようにできていない。夜更かしする。
てきめんに翌日に響く。
ということを繰り返しているなか、ついにそのときが訪れた。
頭上から落ちてきた。むりだ。
自分の能力が及ばないと、眼前に示されることはそうない。
近所の道場に移ろう。選択肢はそれ以外になかった。
結末が決まったら、影絵のように枝葉が輝きだした。
とりどりのセロファンが回転しながら、わたしにむかって影を落とす。
あんなに楽しかったのに。
同期たちと、いっしょに審査を受けようねといっていたのに。
たまたま同じ時期に入った人が多くて、仲間がいてよかったと言い合ってたのに。
何度言ったかわからないくらいなのに。
お稽古にいったら褒め合うLINEグループを、つくったばかりなのに。
同期たちと、飲んだり祝ったり、楽しかったのに。
手早く道着を脱ぎながら、稽古の感想をいい合った。
週に何度も同じ友人と会うなんて、大人になってからはそうなかった。
毎週毎週、ぞろぞろと道場に集結していく。
審査にむかって、追い込んでいく、あの時間が輝いていた。
床のなかで、暗闇を見上げながら、こらえがたく落涙した。
痛くもないしつらくもないのに、大粒の涙がおちる。
深夜は人を感傷的にさせる。
自分から道をおりるなんて、考えもしなかった。
それでも、細々とでもつづけていくのが大事なんだ。
帳がおちる。おとす時がきた。
惜しいけれど、みんなと同期でなくなるときがきたかもしれない。
なんらかの限界は、なんらかの扉が開くときかもしれない。
あとからあとから雫は流れた。
頭のなかは走り回り、輾転しながら、空が白むまで眠れなかった。
翌日、先生に連絡した。
2日後、別の道場に見学にいって、移ることに決めた。
そこから3週間は、お世話になった先生たちにあいさつするために通った。
体力的にもたないから辞めるのに、体力を削りにいくというアンビバレンツ。
友達にも直接話していく。畳んでいく。
「まだあさってもくるよね」「うん、今月はね」
最終回にむかって収束していく。
お礼を伝えていく作業は、心洗われた。
あたたかいことしか伝えない。感謝しか渡していかない。
その曜日にこなくなっていた友達が、さりげなく来てくれる。
いつもどおりお稽古する。笑って別れる。
畳んでいく。お礼を言う。惜しむ。惜しまれる。
道場は変わっても流派は変わらないから、
「何も変わらないよ」と言ってもらう。
今日で最後だと思った人に、その後もまた会う。
また最後だと思って、お別れする。すると、また会う。
社会人になってだいぶたって、はじめてはじめた合気道が、何かを形作ってくれていた。
年齢も境遇もばらばらで、共通点はほとんどない。
バックボーンもほとんど知らない。
職場だったら上司か大先輩だったろうが、道場では道友になる。
不思議な連帯感がそこにはある。
いよいよ最終日。
突如、ひさしぶりの同期が現れた。
何も知らない。
今日が最後だと告げると、眼を大きく見開いて、「虫の知らせみたいなものは、あたるほうなの」と言う。
第六感が私がいなくなることをキャッチしてくれたのならありがたすぎるし、そう表現してくれることも平身低頭したいほどだった。
最終日だと知っている同期も来てくれる。
わかっていながら、ただいつもよりずっと目と目を合わせて笑いながら、いつもどおりの会話をする。
今日が最後だからと、先生がリクエストを聞いてくれる。
その場にいるみんなが、わたしが最後だと知って、やわらかいまなざしを送ってくれる。
こんなに、こころが満ち満ちることがあるとは。
あまたの花びらを、少しずつみんなが胸につめていってくれる。
淡紅色の花びらが、くちなし色の花びらが、空気をまとって浸潤してくる。
まるでこの先にはなんの不安もないかのように。
欠けたることも、焦燥も茫漠も、まるでこの世には存在しないかのように。
のぼせもしない、冷えもしない、人肌のあたたかさの海に浮いているようだった。
陽は差しすぎない、眼も射ない、焼けもしない。
不快なことも、ひずみも、おわりもないかのように感じられた。
ただ辞めるだけなのに。
微笑みを向けてくれているだけなのに。
うすいみどりの畳は、武道用で少しやわらかい。
かたい畳もある。
月日とともに圧迫されると、固くなる。
組み手をするとき、やわらかい畳をさがす。
先生の話がおわって、一斉に座礼をする。
自然とそろう。同時に頭があがる。
同時に右ひざを立てる。
こころが鎮まっていると揃う。
上衣の白が、一斉に立ち上がる。
稽古がおわったら、畳を一枚ずつ雑巾がけをする。
人数が少ないと、二枚ずつになる。
多いと、反対側から拭いてくれて途中で会う。
窓をしめる。
道場からでるときは、座礼して去る。
武道の畳とも、しばしお別れ。
暗闇の落ちた繁華街をゆっくり歩く。
たいへんゆっくり。ほとんど牛歩戦術。
いつもよりだいぶ遅いことにすら、癒された。
惜しんでくれていることが、ひたひたと伝播してくる。
浜辺を歩く裸足が、波にさわられる砂を感じているようだった。
寄せては引く。また寄せては引く。
地下鉄のコンコースまでくると、これ以上は分かれ道だった。
話すことはたくさんあるようで、尽きたようにも思えた。
道場仲間が言った。
「これからも道友だからね!」
幕は下りた。
完璧な最後だった。
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