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【映画評】可視化される理不尽な暴力 『ニューノーマル』

 一人暮らしのヒョンジョン(チェ・ジウ)の部屋に、予定外の点検業者が訪れる。街では女性を狙った連続殺人が発生している最中だ。不安を隠せないヒョンジョン。だが彼女の不安は、まったく別のところにあった。

 『ニューノーマル』は6つのエピソードからなるオムニバス映画。それぞれの登場人物が別のエピソードにも顔を出し、緩やかな繋がりを見せる。4日間の出来事が、バラバラの時系列で描かれるスタイルは先行作『パルプ・フィクション』を想起させる。「新しい日常(ニューノーマル)」というタイトルはコロナ禍によって始まった感染症対策生活を、少なからず意識したものだろう。

 「新しい日常」とは不思議な言葉だ。いつもと同じ、何も変わらない平凡な生活が「古いもの」とされる。そして全く知らなかったものが「はい、これからの平凡です」と差し出される。2020年、日本ではそのようにして「三密」が私たちの日常となった。その抗えない変化と感染症の脅威を、「新しい日常」という言葉はどこかマイルドなもの、制御可能なものに見せかけた気がする。

 本作が提示する「新しい日常」は、私たちのすぐ近くに潜む理不尽な暴力だ。何事もなく過ごしている日常に突然、暴力が立ち現れる。抗うことができない。何故こんなことになってしまったのか、と考える暇さえない。そんなふうにして暴力に飲み込まれていく登場人物たちは、「普通の(ノーマルな)」人々だ。(一部を除いて)特別悪いことをしたのでもない。「公平世界仮説」は脆くも崩れ去っていく。

 しかしその理不尽な暴力の数々は本当に「新しい」のだろうか。既にあったのではなかったか。コロナ禍が私たちの身近にずっとあった陰謀論やデマを否応なく可視化し、その暴力性や加害性を白日のもとに晒したように、その暴力も単に見えやすくなっただけではないのか。

 韓国では「脱コルセット」ムーブメントなどのフェミニズム運動が盛んだが、その分バックラッシュも強いと聞く。いわゆる「女性嫌悪犯罪」と思われる、女性(特にフェミニストと目される女性)をターゲットにした暴力事件が近年多発している。本作にも多かれ少なかれその影響があるのではないか。

 前述の通り、本作は4日間の出来事が6つのエピソードにバラバラに配置されている。時系列に並べてみると、ある人物が連日殺人を犯していることや、オンラインで楽しげに話す(互いに素性を知らない)2人が続けて被害者になること、マッチングアプリ(とあるアナログな方法)で知り合った人物と実際に対面すると必ず悲劇が起こることなど、幾つかパターンが見えてくる。そのあたりも『パルプ・フィクション』に似ている。

 奇妙な話の集合体は『世にも奇妙な物語』のようでもある。個人的には、ミュージシャンの夢に破れてコンビニ・バイトに甘んじるヨンジン(ハ・ダイン)を主人公にしたエピソード『ろくでもない人生』の閉塞感と切なさと、ちょっと突き抜けたユーモアに共感を覚える。

 そして同じ韓国の『このろくでもない世界で』の映画評でも書いた通り、本作にもキリスト教の影は見えない。韓国エンタメにおけるキリスト教の影響は、ますます薄まっていくのだろうか。

 『ニューノーマル』は8月16日(金)公開。


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