【映画評】そのマイノリティ表象は熟考されたものか 『ぼくのお日さま』
夏は野球クラブ、冬はホッケークラブで漫然と練習していたタクヤはある冬、フィギュアスケートの魅力に取り憑かれる。たまたま知り合ったコーチの荒川が指導してくれることになり、その教え子のさくらと共にアイスダンスの大会を目指すことになる。
『ぼくのお日さま』は雪が降る田舎町を舞台にした、一冬の青春物語。綺麗な画が多い。監督が言う通り、フィギュアスケートを題材にした珍しい作品だ。公開前の現段階では好意的なレビューをよく見る。けれど私は、特に後半の展開に幾つか危うさを覚えた。
一つはタクヤの吃音症の表象だ。国語の音読でつまずくとか、普段の会話がスムースでないとか、吃音者にとって「あるある」なシチュエーションが散見されるが、周囲から馬鹿にされることがなく、本人もさほど困った様子がなく、何より「伝えられなくて決定的なトラブルに陥る」という吃音者最大のトラウマが発現せず、吃音者が抱える困難がなかったことにされてしまっている。主人公を吃音症にした必然性が見当たらない。もちろん必然性がなければ出していけないわけではない。けれど吃音者が全く差別されず、全くイジメられず、それどころか少しもからかわれない、ほとんど困らないという描写はおよそ現実的でない。吃音者が日々直面している現実を不可視化するなら、わざわざ吃音症を描かないでほしかったと思う。
「重要な場面で主人公が何と言ったか(観客に)聞こえない」という表現方法が昔からあるけれど、本作はそれを「吃ってしまって言えない」という形で利用している。症状を都合よく利用されてしまったな……とも思った。正直、同じ吃音者として気分は良くない。
もう一つは同性愛者である荒川コーチの描き方だ。彼は同性のパートナーと同棲しているが、終盤にある決断を迫られる。このくだりは大きく省かれてしまっているが、相当酷いことが起きたのは明白だ。そこを全く描かないのは、やはりマイノリティが直面する過酷な現実を不可視化することに他ならない。この点でも、なぜ同性愛者の設定にしたのか分からない(繰り返すが、必然性がなければ同性愛者を出してはいけない、という話ではない)。
最後の一つは、荒川がタクヤとさくらの(そしてそれぞれの保護者の)同意を丁寧に取らないまま、アイスダンスの大会を目指させるように見える点だ。もちろんタクヤとさくらは楽しんだと思う。けれど特にさくらの反応を見るに、大会出場に心から納得していたとも考えにくい(それが彼女の最後の決断に影響したのはでは? とも思う)。
大人の願望に、子どもたちが都合よく利用されてしまったように見える。
以上、マイノリティの描き方が熟考されていない点、子どもの人権が十分に尊重されていない点に私は違和感を覚えた。前半の展開が良かっただけに、残念でならない。通常、試写会で好印象でなかった作品は(公開前に)批評を書かないことにしているが、本作は問題提起の意味合いで書くことにした。鑑賞前の方の参考になればと思う。
『ぼくのお日さま』は9月13日(金)公開。