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【映画評】ジョーカーがもたらす混乱はスクリーンを越えるのか 『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』

 ※2024年11月4日加筆修正しました。

 前作で6人を殺害したアーサー・フレック(ジョーカー)はアーカム精神病院に収監され、裁判を待っている。弁護士は解離性人格障害を主張し、アーサーとジョーカーが別人だと証明しようとする。検事のハービー・デントは逆にアーサーこそジョーカーだと証明しようとする。外の群衆は反逆者としてのジョーカーの解放を叫ぶ。アーサー本人は黙して語らない。しかしリー・クインゼル(ハーレイ・クイン)と出会うことで、彼は行動を余儀なくされる。

 本作はアーサーのアイデンティティを巡る物語だ。彼はジョーカーなのか、そうではないのか。周囲の人間は好き勝手に語り、それぞれに期待する。アーサー本人だけでなく、我々観客もどちらなのか分からなくなる。

 アーサーは群衆に祭り上げられる点でイエス・キリストに似ている。エルサレムの群衆はイエスに政治闘争と革命を求めたが、当のイエスは戦いを拒んで処刑された。アーサーも解放のチャンスを自ら棒に振ることで、群衆の(身勝手な)期待には応えない。むしろ皆が求めるジョーカー像と自分自身との乖離に苦しむ。そんなアーサーの一番の理解者に思えたリーも、イエスの弟子たちとそう変わらなかった。

 また前作がアーサーの「罪」を描いたとしたら、本作は彼の「贖罪」を描いたと言える。その点でもキリスト教と親和性が高いだろう(また一般的にも、殺人を犯したジョーカーが英雄として祭り上げられたままなのは問題だ。その点でも本作の展開は必要だったと思う)。

 本作が前作に比べて不評なのと、群衆がイエスに失望したのは構図が似ている。エルサレムの群衆がイエスに過激な革命を求めたように、我々もジョーカーとハーレイに華々しい、暴力的な活躍を期待したのではないか。確かに社会から排除され、弱い立場に置かれた男女がその構造をひっくり返す物語は心躍るだろう。それがカリスマ的なヴィランたちなら尚更だ。

 しかしアーサーは何度も訴えている。「誰も僕を見ていない」と。劇中の群衆だけでなく、観客である我々も、彼をアーサー・フレックでなくジョーカーとして見ているのではないか。我々は目の前にいる彼を見ておらず、彼の話を聞いていないのではないか。本作はそんな歪みをメタ的に訴えているようにも思える。

 本作のミュージカル調に対する批判もある。「いちいち歌うな」「ミュージカルにしては中途半端だ」と。しかし本作において(特に収監されたアーサーにとって)歌には重要な意味がある。音楽自体が持つ治癒効果と現実逃避効果だ。アーサーはそれを必要としていたし、彼とリーを繋ぐのもそれだった。またミュージカルが全体的に華々しいものでなく、陰鬱なのも意図的だと思う。アーサーの内面の投影なのだから。ちなみに終盤にリーに「もう歌わないでくれ」と懇願したのは、もはや歌に逃避する場面でなかったからだ。

 本作においてアーサーとジョーカーの関係が最も揺さぶられるのは、おそらくゲイリー(前作にも登場した低身長症の男性)が証言する場面だろう。ゲイリーとの対話を通して、アーサーの優しさとジョーカーの残酷さが激しく対立する。ここでのやり取りが、アーサーの終盤の決断に影響したのは想像に難しくない。

 繰り返すが本作はアーサーのアイデンティティを巡る物語だ。彼はジョーカーなのか、そうでないのか。DCコミック屈指のヴィラン、ジョーカーの暴力的な活躍を期待してしまうと、その前提を見逃してしまう。本作はあくまでアダプテーション(翻案)として鑑賞すべきだと思う。

 『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は10月11日より公開中。

・追記
 『ジョーカー』と『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は前後編の関係にある、と監督のトッド・フィリップスが語っている。そうして見ると、例えばSNSでバズりまくって突然人気インフルエンサーになり、何者かになれると思った男が、結局のところ何者でもなかった、と気付かされる話と言えるかもしれない。DCコミックのジョーカーというキャラクターからは離れるけれど、独立した映画として見るとその解釈は間違っていないと思う。

・さらに追記
 ちなみに鑑賞後、近くの席の人たちが「人が狂気に堕ちていく様子がすごかったね」という旨の話をしていて、いや、これは狂気に陥った人が正気を取り戻す話じゃなかったかな……とクソリプ的に思った次第。

・もう一つ追記
 宇多丸さんの映画評を聞いて興味深かったのが、IMAXで見ると現実とアーサーの妄想で画角が変わる、という話。現実部分は通常のシネマスコープ画角(2.35:1)だけれど、妄想部分はIMAX画角(1.43:1)になる、という(ただし改めて確認したところ、必ずしもそうではなかった)。
 もう一つ興味深かったのが、前作が「いわゆる弱者男性に寄り添う映画ではなかった」という話。前作の終盤、アーサーはジョーカーとして暴徒たちに祭り上げられるけれど、結局病院のようなところに収監されて終わる。つまり「弱者男性」がヒーローになった話でなく、結局暴れて捕まった話だった。これは「弱者男性」問題の解決は暴力ではないし、ジョーカーのように振る舞うことでもない、ということなのだろう。

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