敢えて考える。勧めるべき3つの『親の礼』:選択肢の2

 情が通じればこそ湧く意欲があるとは思う。
 開き直って贔屓を肯定する論調は頷けなくもない。確かに、それが良い効果をもたらすことはあるだろう(ピグマリオン効果の話はよく聞く。問題はその妥当性に裏付けが無いこと、恣意的選択である)。
 しかし、情は万能ではない。

 あれは中学国語の教科書に掲載されていた霊長類学者の河合雅雄先生の書かれたエッセイ(思考実験?)だったと思う。そのさわりを以下に記す。
・チンパンジー型とオランウータン型
 バナナを入れた秘密箱を用意し、それを被験対象であるチンパンジーとオランウータンに与える。
 チンパンジーは途中苛立ちを見せたりしながらも、試行錯誤を繰り返して熱心に箱へ挑む。そして箱を開けられた時は狂喜乱舞し、おいしそうにバナナを食べる。
 一方、オランウータンは始め箱を少し弄ったかと思うと、早々に諦めて手放して部屋の隅に行ってじっとする。しかし、しばらくした後ふいっと手を伸ばすと、あっさり箱を開ける。そして特に喜ぶ表情を見せず、ムスッとしたままバナナを食べる。
 たとえ箱を開けるまで掛かった時間が同じ15分だったとしても、日本社会で好意的評価を受けるのは前者のチンパンジーとなる。

 とても穿った指摘だと思う。情が人の目を曇らせるのもまた確かだろう。それがリトレイスの落とし穴だ。

 湖人先生は次郎物語第四部8節『水泳』にて、次郎の日記として以下のよう記す。

 父はいつも愛情をとおして道理を説き、道理の埒内で愛情を表現することを忘れない。しかし、わが子の安全を希うのが親としての情であるかぎり、時として父の説く道理にも、いくらかのゆがみがないとは限らない。

 第1部分で引いた『孟子』離婁章句は『道理をむりにすすめる教育によって情が離反するのは不祥な事』と説いているが、情を信頼し過ぎではないだろうか?
 また、現代の問題は寧ろ逆が目立つ、そもそも親の情が子から離反しているようなケースだ。子供を授かる以前に愛情への不安が先立っている人は多い。

 親自身が過去に『空気が読めない』『気がきかない』『察しが悪い』と言われ続けていたため自信喪失、胸裏の『仁』徳の端緒に確信を抱けない人は少なくないと思う。何を考えているか分からない子供を過剰に恐れて距離を置きたがる人、俗に愛着障害と呼ばれる状態がそれだ(分からないのが当然なのだ。声高らかに叫ばれる「自分の子供は愛おしく思って当然」という言説を真に受けて惑わされ、判断力を麻痺させられている)。
 情に不安を抱いて親になること自体を恐れる人には、道理に沿った教育・親子関係の鋳型を探り出せれば、幾何かの助けになるかもしれない。改めて道理によって良好な教育・親子関係が構築できないか、道理に沿う教育姿勢をこれから思索してみる。

 例えば、「人は分かり合えない」と開き直って、社会契約のような形で子供に向かい合い、家庭内に(『子供に』では無い)確固たるルール、社会の縮図を築こうと試みることだ。
 それは子供に善をむりにすすめるより、先ず己を顧みて、率先して社会的道義に応えることを意味する。

 子供は、偉い先生の素晴らしい座学よりも、眼前の親の行ないを真似して応答したくなるものだ。それが、どれほど小さく、つまらない善であっても。働きかけることなく感化させる、孟子はそれを君子の理想とした(お民の錯誤はここ、親の行ないが見えない所へ遠ざけたことにある)。
 影響(罰則)の大きさがルールの順位と錯誤して『破ったら許されない』からルールを守る(外の目への隷従)のではなく、『小さくとも瑕疵である』からこそルールを守るのである(内の目への忠誠。瑕疵を引き受ける決心をしたからこそルールを破るのではないのか?)。
 メンツが傷つくのは衆人環視の中で違反を咎められたときではない。それこそ裸の王様、孟子の指摘する『ご自分の行ないはさっぱり』と子供に見透かされる事態である。
 社会正義の意識(コモンセンス)が強い子・合理思考の強い子には勿論、何といってもゲームに親しむ子はルールに親しみやすい。また、本心に従って生きられるほど我を張れない、競争を好まない子、優しい子など、合いそうな子は存外に多いと思う。
 頭の片隅に前節リトレイスを置きながら、次の選択肢を考えてもらいたい。


●レスポンド[Respond]
 応答する。語源は『Back to promise:約束し返す』、自ら働きかけるのでは無く、子供側から要求があるとき応じること。シンプルにReply、Reactionと名付けても良かったと思うが、一方的思い込みによる『しつけ』を除外するため、傍目から見て成否の基準が明確にする方が良いと考え、この言葉を選んだ。後手を基本姿勢とし、理想は『後の先』の形になると思う。
 『子供をどうするか』を考えるのではなく、『としてどうあるか』を考える。理想を言えば、子供の視界に入る人、行ないを見られる人の全てがレスポンド対象、背を正さねばならない『子育ての共同体』参加者となる。

 ……案外、子供を排斥する都市社会の本音はそこかもしれない。
 『赤信号、みんなで渡れば怖くない』が『赤信号、子供の前では渡りづらい』……、[潜在的ルール]による責任回避が成立しなくなり(空気が読めない?子供のせいで)、負わなければならない社会的道義が面倒だから、言わば『大人の責を負いたくない』のではないでしょうか?個人的な邪推です。

 話を戻す。注意すべきは道理を手段にしないこと、子供をコントロールするのを目的に道理を説くようではならない。
 時々、子供と取引関係、トレードオフを結ぶ親の話を耳にする。良いしつけができていると称賛するのが多数派だと思うが、私は懐疑的な目で見ている。例えば〝なにがあっても、おおかみにならないこと〟このトレードオフはレスポンドではない。『おやつは3時だけ』は普遍ルールに解釈ができるレスポンドだが(見咎められた親が逆ギレしなければ)、『いい子だから、お外では泣かないで』はレスポンドではない。
 一方的に注文を付けるだけ、自己(世間)都合を押し付けるトレードオフ、不均衡な循環契約を子供に約束させてはならない。道理たるレスポンドは、親も同様の責を負う家庭内のルール、言わばドメスティック・コレクトレスであり、『子供はダメだが、大人は良い』という例外規定があっては成り立たない。子供へ『大人になること』を強いることなく、自らが社会人として振舞うこと、『大人であること』を示すべきである。
 もっとも、トレードオフ自体悪いとは思わない。
 寧ろ、子供らはトレードオフに慣れている方が良い。知恵をつけ、手口を真似た子供が大人へ積極的にトレードオフを仕掛けられるのは良いことだ。世知にたけることが良いのではない、己の小賢しさに気付く等、得難い徳育の大抵は自発的行動を契機としているからだ。
(私が身につまされるのは次郎物語第一部34節『牛肉』、唯々諾々と従わせる知育では実感が難しいことです)


 先の3つの努力に照らし合わせて考えると、レスポンドの第一はリメンバーとなる。
 気を付けてもらいたいのは、ルールを守れないことがレスポンドの失敗ではなく、ルールを有耶無耶にしてしまうことがレスポンドの失敗だということ。
 それにはリニューアルが欠かせない。前節で議論したこととはまた性質が異なり、更新するのはルールだ。違反指摘、釈明、問題追及、規則撤回もしくは更生を繰り返す……、それはより良い関係を築くための枠組みとなる。
 話が戻ってしまうが大事なのはリメンバー、自分の言ったことを忘れないことである。レスポンドとは責任感[Responsibility]に列なるもの、己の発言に責任を持つことであり、「記憶にない」とは無責任の表明に他ならない。約束が破られたとき、共感表明たる『謝罪』を求めるリトレイスの情とは異なり、レスポンドが求めるのは違反認知とルール遵守の再徹底たる『反省』である。

 「大人になればいつか分かる」などというテンプレがあるが、大人になっても釈然としない、それどころか虫がいい話に過ぎなかったと気が付いた、そんな体験(した or させた)はないだろうか?その記憶に囚われたまま大人になり、血を吐くように「謝って欲しい」と親への恨みを吐露する人、その人が本当に引き出したいのは、『謝罪』ではなく『反省』ではないかと思う。
 しかし『謝罪』は後でもできるが、『反省』はルールのあったその時、その場でしかできない。『大人になっちまったら手遅れ』であり、『反省は一時の恥、知らぬ振りは終わりの見えぬ禍根』だ。
 その誘惑の甘美さは分かるが、その場凌ぎはろくなことにならない。子供の記憶力は計り知れないもの、単なる先延ばし(=不活動モラトリアム)が齎す損失はあまりに多大である。
 その人が信用を失うだけで済むなら安いもの、親を疑う子の心中や如何……、レスポンドの最悪の状況は、次の約束が訪れなくなるということである。

 道理とは、罰によって教え込むことができない。
 道理とは法[The law]ではなく、[Reason]であり、その集積が常識[Common sense]となるのだからだ。また、法は法として社会構造と共に学ばねば、身につくのは経済(損得勘定)だけだろう。

 ここまで、レスポンドの具体的な実践イメージの固まっている人は少ないと思う。個々の例示するのが一番だろうが、微に入り細にわたって解説する『子育てマニュアル』を作るような愚を犯すわけにはいかない。
 レスポンドの行き着く親子関係を考えるに当たって、成長の到達点の一つ[アイデンティティの確立]に焦点を当てる。私は実感に従い、卑近の2つ事柄に思索を広げてゆく。
 ⇒Next

(2020年、公共の道理[Common sense]はズタボロだなぁと思う。あのザマで礼儀だの、道徳だのを語るとは。なんて面の皮が厚いこと……)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?