子供が[アイデンティティの確立]するために

●[プライベートの確保]:『胸ん中の剣』を持たせる前に『自分だけの部屋』を

 引きこもりの情報が乏しかった一昔前のこと、『甘やかして部屋なんか与えるから、引きこもりが生まれるんだ』という言説をちらほら聞いた(この単純思考が、あの『引き出し屋』の跳梁を招いたのだろうか?)。


 私は寧ろ逆だ。追い詰められた時(最優先で考えるべきはそこ)、機能不全な部屋であったからこそに役に立たず、それが物理的な干渉断交に向かうのではないか?
 やや裕福な日本の親は右へ倣えで子供に物質的に部屋を与える一方、プライバシー尊重(子へのリスペクトである)ができていなかったのではないだろうか?


 この話は前々節の『受験はリトレイス困難』の続きになる。
 受験生の頃、私は母から言われた言葉に「リビングではどれだけリラックスしていてもいいから、自室に籠っている間はずっと勉強していなさい」がある。
 机に縛り付けた時間、削った睡眠時間がそのまま成績に反映されると思い込んでいる親は多いのではないかと思う。自分の目の届かない子供をコントロールしたい(しかし、子供から目を放していたいという矛盾。それは塾、習い事の追い風にもまた無きにしも非ずである)、親のエゴをそのまま口にした言葉ではないか。

 ある時のこと、パリパリ触感の糖衣に被われたレモンミント風味のグミにハマっていた私は、数箱分のグミを学習机の引き出しのトレーにぶちまけて、かなり行儀悪い幼稚な食べ方(妖怪『小豆洗い』よろしく、ジャラジャラ音を立てていた)をしながら受験勉強に勤しんでいた。そこへノックせず駆け込んできた母、「胡乱な音がするから勉強をサボっていると思った」と言う。その時は不問に付したが、後になって違和感を抱き懊悩することになった。

 過干渉の親はプライバシー尊重ができていない。いや逆か、プライバシーを尊重されなかった故に、過干渉の自覚ができないのかもしれない。
 そこには無視できない歴史的背景がある。そもそも女性は世間の目に監視され、自由を縛られていたのではなかったか。
 日本なら嫁姑関係が一番に浮かぶだろうが、そんな些末なことではない。かといって、生得的な話とするには飛躍が過ぎる。要はジェンダーの話である、ただし、理屈を文化人類学にまで求める必要はない、ほんの少し現代社会の影に目を向ければ話は済む。
 私はそこに[プライベートの確保]に至るステップのヒントを探り、ある古典に当たった。

 一人々々が年に500ポンドの収入と自分だけの部屋を持つようになったら、もし思うところをそのまま書く自由と勇気を身に着けるようになったら、共同の居間から少し逃れて、人間を必ずしも常にお互いとの関係において見るのではなく、現実とのかかわりにおいて見るようになったら、そして空や木々や、その他何でもをそれ自体において見るようになったら、ミルトンのお化けの向こうを見るようになったら―どんな人間もその向こうの眺望をさえぎって見えなくしたりすべきではないのですから―私たちが、自分たちはすがりつく腕など持たず、独りで歩み、かかわっているのは現実の世界とであって、男女の世界とだけではない、という事実(それは事実ですから)に直面するようになったら、その時こそ、機会は到来し、シェイクスピアの妹だった亡き詩人は、これまでしばしば脱ぎ棄ててきた肉体をまとうでしょう。
 ヴァージニア・ウルフ『自分だけの部屋』

 言わずと知れた名著の一節である。
  [ミルトンのお化け]=下知された将来、[男女の世界]=血縁、[シェイクスピアの妹だった亡き詩人]=貶された個性、そのように単語を入れ替えてもう一度読んで欲しい。巧妙な手口で抑圧され、知らぬ間に自尊心を委縮させていた人は勇気をいただけると思う。

 部屋と言えば、昔話『屁ひり女房』を思い出す。
 あの話の肝、『屁屋』にはプライバシー保護の機能は実質無かった(屁の音は漏れている)。あれは機転の話か、それとも管理の話だったか。

 部屋の価値……、
 内に籠ってなお干渉を防げない者が得るのは、『屁屋』でしかない。
 外に出てなお放縦な生活を送る者が得るのは、友人に自慢するステータスでしかない。
 外と内を分ける境界を築けた者が得るのが『自分だけの部屋』、心身を休めることができるセーフハウスであり、肥大した己の自尊心を叱咤激励できるアドバイザーだ。


 選択肢は多ければ多いほど良い。
 立ち向かう勇気となる『胸ん中の剣』を持たせるのもいいが、勝ち目がないと見るや『逃げる』という選択肢が浮かぶよう、『自分だけの部屋』を持たせた方が現実的である。
 追い詰められた時ほど冷静に考える時間を確保する必要がある。
 『下手な考え、休むに似たり』という(私の大っ嫌いな)言葉があるが、現代社会の手口は『下手な休みは、賢者の恐れ』ではないか。(西部先生は三十代後半における外国滞在二年間を振り返り『「引き籠もり」寸前の状態といわれても致し方ない』『それはビジネス(多忙(ビジー)なことネス)から離れてスコーレ(余暇、学校(スクール))の状態に入ったということを意味していました』と感慨する)

 また、それは裸の王様、いじめ加害者にも言えることだ。
 虚勢を張る以外選択肢の無い状況に陥ったとき、運命はもはや自身の掌中に無いのだ。彼らは篝火の周りを踊る畜群が落とす影と化している。その人に必要なのは『鬱の力』、鬱勃(=活動モラトリアム)すること、それには『自分だけの部屋』だと思う。
 外にアピールするため振っている剣が一体何に当たっているのか?雑音によって奪われていた考える余裕を取り戻すため、閉じ籠もって古典を思い出す時間を作れる『自分だけの部屋』が必要だ。

 [プライベートの確保]、それは裸になれる場所『無防備でも危険が無い避難地』また『着飾った自分を脱ぎ捨てられる解放地』を得るということだ。


 余談だが、4つのエピソードからなる孟母伝の中、部屋でだらしない格好でくつろぐ妻に『無礼だ』と腹を立てた孟子が母へ訴える話がある。背景にある孟子の思想の色が強いので(礼とは他人に求めるのではなく、自ら示すことをいう)劉向の創造が濃厚らしいが、なかなか面白い示唆に富む話だ。

 以上、自室の役割について考察した。
 ただ、それよりも大きくて無視できない問題が残されている。もっとも、個々の家庭の事情に大きく影響され、難しいので今は触れる程度に止める。
 それは『年に500ポンドの収入』に集約されることだ。
 収入格差の事もそうだが、歴史上で制限を受けていた女性の権利の中に私有財産権がある(相続権が無い等)。止む無く、多くの女性は共有財産意識を持つことで、その差別から目を逸らしたのではないかと思う。しかし、その共有財産意識こそがプライバシー感覚の欠如、そして母子の融合を少なからず助長したのではないだろうか。
 ……まあ、子供に対し私有財産意識を持っている毒…、いや、クズより余程ましであるが。


 孟母伝、財産権の話をフィードバックして自室の捉え方を補足する。
 外交関係は良くも悪くも親子関係に似る、どうせなら良いマナーを逆輸入したいもの。(国境ははっきり規定すべきだが)プライバシーを保護する仕切りは無くてもいい、国土は狭くていい、家庭内に自治権が約束されたエリアを認め、絶対に侵犯しないこと(わざわざ例示したくないが、勝手に物を捨てない、食べない。故意でなくてもしてしまったなら、謝り弁済する。笑って済まさないこと)。
 親に求められるのは国家紛争の調停役(=兄弟喧嘩の裁定、同級生との衝突の仲裁)としての能力であり、必ずしもリトレイス的同盟者である必要はない。
 人の尊厳を育む『額縁』、それは自室ではないだろうか。


●[パブリックへの意志]:修身としての『掃除する』
 本来の順序とは逆だと思う。
 何かしらのパブリックの構成員となることで初めて、守るべきプライベートが線引きできるだろう。プライベートだけでは個人主義も危うい、下手をすると無秩序主義となる。
 かといって『子供でなくなったら(思春期をきっかけに)、プライベートを与える』という考えは拙い。
 養老先生の言う『子供をコントロールできるという錯覚』の下の行動である。故に親は先ず『自然権としてプライベートがある』と認識、尊重、そして当人が自覚できるまで保護することが大切である。子供が意識してからプライベートの整備するようでは遅いのだ。親が整備するべき事、それは家庭内パブリックである。

 そこで『掃除する』について一考したい。
 程度の差こそあれ、独りで気ままに暮らしたならば、人のほとんどが汚部屋に落ち着く。住めば都、どんな環境でも案外適応できるものだ。
 掃除とは共同生活の場に生じる、パブリック特有の社会行為なのである。
 かつて日本では掃除は修身の一環だった。しかし、その認識は変質している。特に明治以降、軍隊的規律を徹底する手段、もしくは経済活動として『掃除させる』に過ぎない。掃除の意味を掃き違え……、もとい履き違えているのだ。

 特定の個人を「汚い」と標的にするいじめがある。とんでもない思い違いだ、そもそも人は等しく他者を汚いと感じるのである。
 尾籠な話となるが、直前まで自分の体内にあった排泄物は感染症の危険という意味では既知なので汚くない。目の前で出され、無菌状態だとしても、他者から出された排泄物は未知故に汚い。赤ん坊の排泄物は感染症の危険という意味では非常に清潔だが、同じく未知故、他者故に汚いと感じるのだ。

 共同生活を円滑なものとするため、互いに不快に感じないよう、互いの不始末を片付け合う……、それが『掃除する』ということだ。
 問題は他者の目で自分を見られるかどうかということ。自分もまた不快感を抱かれる存在であることを理解していないとは、パブリック意識の欠如も甚だしい。
 『掃除する』とは言わば自分のタグを取り払う、さながら野生動物が自分の痕跡を消すように行うのである。行為だけを見たなら証拠隠滅のようだが、本質は廉恥を知ることに他ならない。
 一年間風雨に晒されたあばら屋・閉ざされた物置の掃除がCreationであるのなら、人の生活場所の掃除はRecreationであろう。


 では、学校の掃除は修身の体を成しているだろうか?
 今や礼儀は学校では身につかない。果たして学校はパブリックの場としてどれほどの機能を発揮しているだろうか?今の子供たちは、クラスメイトを共同生活者として認識しているだろうか?受験の時、親、塾講師に「周囲はライバルだ」「一生付き合う相手ではない」と刷り込まれた人は多いはず。
 特に、公立校の掃除は『掃除させる』の体で行われていると思う。本気で学校で礼儀を学ばせたいと思うなら、教師に一切指導させず、生徒に一任するのも一つの手だと思う。

 かったるくてやりたくないなら堂々とそう言い、皆が納得する理由を示せばいい。
 最も駄目な例は親がサボる口実を作ってしまうこと、部活だろうが、塾だろうが、昼寝だろうが、その代償は当人にしか返せない。
 『垢で死んだ例(ためし)なし』ではないが、片隅に埃が吹き溜まる教室だろうが授業はできるのだ。いっそ、TVバラエティよろしく『一ヶ月間掃除無し生活』を試してみればいい。
 禅問答のようだが、『掃除しない』とは『掃除する』であるのだ。

 結局、[パブリックへの意志]は個々の家庭でしか育めないと思う。
 同棲を始めたなら、掃除を家事にせず、バトンタッチ形式にして互いの『掃除する』感覚、対人距離を量ったらいい。
 『掃除させる』マインドから抜け出せない者の要求水準は高い、人は自分に責任が無い事こそ口煩く文句をつけるものだ。時間をかけて、共同生活を円滑にするための知恵を蓄積してゆくことだ。
 なお、『掃除してあげる』は共有財産意識(共依存)になりかねない、プライベートエリアの掃除は他者に委ねないことである。
 以上は子供に対しても同じ、プライベートエリアからはみ出ない以上は注意することなく、また逆にパブリックエリアを占拠するようであれば厳しく注意して改めさせることである。

 さて、掃除をタネに[パブリックへの意志]に触れてきたが、その契機は其処彼処に転がっている。
 もっと一般的、シンプルな話をするならば『一家団欒の食事』だろう、また、旅行中、同じ旅行者を見て意識することもあるだろう。親が本当に公共心、公徳が必要だと意志するなら、すでに正解を探す必要は無い。
 なお、対極にあるのは経済であることを忘れてはならない。経済を優先したとき、[パブリックへの意志]は簡単に消し飛ぶ。月一回の弁当制度から端を発する、養老先生が話す「大人の都合」とは、つまらない損得勘定に集約されることではないか。
 経済度外視でこそ公徳であるのだ。鼻につくほど「大人の都合」臭が漂う中、公徳は生まれない。

 リトレイスを二人三脚とするならば、レスポンドは親子交互で行う手押し車であろう。互いに役割を入れ替えても、同じ感じ方はできない。非対称の関係であることに気が付く必要がある。

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