今後の道徳教育の在り方について

● 実現性は度外視、『考える』重視の道徳を思案する。

・良い教科書は?
 確か大学の恩師から伝え聞いた言葉だと思う。
『科学は解かり易く説明しなければならないが、解かり易く説明し過ぎてもいけない』
 曰く、噛み砕き過ぎた説明をしようとして省き過ぎると、科学的論拠が失われてしまうので、失うべきでない難解さは見極めて必ず残しなさい、とのこと。

 道徳教材もそうあるべきではないか?
 だれもが賛同するように一般化、単純な物語に落とし込んでしまうと、学ぶべきこと、考えることが失われてしまう。映画、小説、漫画、アニメ……etc、あらゆる作家が重層的で、複雑に絡み合う世界、現代社会を表現しようというのだから、答えが一つしかない幼稚な勧善懲悪、二元論的に小さくまとまってしまっては駄目だろう。
 そう考えて『スイーツはおやつに入りますか?』は冗長な物語にしようとした。
 しかし、書いている最中、自分の中に欺瞞の匂いを感じて、ふと投げ出したくなった。どうしても作者の理想が混じってしまう創作では、どこか歪な道徳教育にしか繋がらないのではないだろうか?(私の小説的技巧未熟は置いといて……)

『おとぎ話のなかから唯一の方策をひき出すことは絶対にできない』
 マリー=ルイズ・フォン・フランツ(ユング派心理学者)

 低学年向け教科書はともかく、高学年向けのものはノンフィクションに限定、もしくは道徳目的の創作された作品ではないもの……、作家が自分のために書かずにはいられなかったものを掲載するべきだと思う。
 白々しい綺麗事を集めるのではなく、理不尽なこと、悔やんでも悔やみきれない悔恨、取り返しのつかない失敗を、己の血で書き記すような苦しい、夜も眠れないほどの悩みを抱かせるような物語 、それならば『考える』道徳にふさわしい。
 過激に言えば、『トラウマを植え付ける位』が丁度良い。
 ……時々、杞憂する人がいるが、『お勉強』は自己体験と次元が違う。『お勉強』は精神的予防接種になりこそすれ、トラウマになんかなりゃしない。

・ 『正しくない』行動、近現代史を俎上に載せて考える。『正しさ』の多様性を認めるということ。
 ノンフィクションを道徳教材に選ぶならば、授業では十分な時間がとられないと指摘される近現代史を選んでみたらどうかと思う。『戦争の放棄』『反戦』を考えるには、歴史よりも道徳の時間が相応しくないだろうか?
 墨塗りの教科書はどこが間違っていたのか、戦争の早期終結ができず戦死者を増やしてしまった理由、降伏直後に機密重要書類焼却してしまったこと……、考えるべきことは山ほどある。

 『次郎物語』著者、下村湖人先生は、第二次世界大戦の終戦から4年後、昭和24年に出版された第四部の付記に、

 出来うれば、敗戦後の日本の運命と次郎の運命とがどう結びつくかを書き終えるまでは、この物語に別れを告げたくない(中略)私は急がなければならないという気がしてならない。まして、第三次世界大戦の危機がわれわれの頭上をおびやかしていることを思うと、一切をなげうって、この仕事に没頭すべきではないか、とさえ思うのである。これは誇張でもなんでもない。第四部を書き終えた時の私の実感なのである。

 と記して、続く第五部は、

 この記録は、見ようでは、かれの生活記録と言うよりは、むしろ、満州事変後急速に高まりつつあったファッシズムの風潮に対する、一小私塾のささやかな教育的抵抗の記録であり、その精神の解明である、と言ったほうが適当であるのかもしれない。

 と記してあるよう、
 五・一五事件を批判したために教職辞任となった朝倉先生が始める私塾で、二・二六事件が起きる時勢を舞台に、理想と恋愛に悩み、運命を思う次郎を描く。
 もう二度と日本に戦争を招きたくないという率直な願いをただ言い聞かせる(次世代へ)わけでなく、歴史の分岐点かもしれない時点に日本人(当事者)は何ができなかったか、丁寧に『考える』作品だ。そして、残念ながら戦争末期の第六部、終戦から数年後となる第七部は執筆叶わず、大往生される。

 ただ、(そもそも資料を焼却してしまったために)激しく歴史的事実関係が争われる第二次世界大戦を道徳の教材にするのは非常に難しいだろう。
 そこで私は、全共闘運動・大学紛争の体験を教材にすることを提案したい。
 多くの方が分析されている出来事であり、少し調べれば知識としては理解できるだろう。
 しかし、当事者によって語られた体験は少ない。現在、戦争体験者よりも多くの体験者がいるのに、自分の体験をちゃんと語っていないのではないか?(……誇らしい体験ではない故に)
 そのとき何が『正しい』と思って、そして何をして、今何を思うのか……、考えるべきことは山ほどある。


 何故、上手く行かなかったこと、『正しくない行い』を考えなければならないか?
 ある思い出話がある。
 私が中学3年生のとき、『アゲ太郎先生』と影で呼んだ校長先生がいる。
 侮蔑ではない、親愛の情を込めた呼び名だ。そもそも校長とは滅多に関わらないので他の校長先生はあだ名どころか名字も、何人いたかも覚えていない。担任教師の名前すらろくに憶えていない私だが、アゲ太郎先生の本名は覚えている。
 アゲ太郎先生は就任時、先ず自分の大学生時代を、胸を張って生徒の前で語った。
 よくある話だ。先生が入った柔道部では伝統が、後輩に対する理不尽なシゴキ……、いじめが横行していたという。
 先生は同級生の友人達と『明らかに間違った上下関係だが、歯を食いしばり、甘んじて堪えよう。しかし、俺たちは絶対に真似しないんだ。俺たちが後輩に伝えないことで、この悪しき伝統を断ち切るんだ』という約束をして、そして信念を貫き通して、その実現に成功したという。
 堂々と体験を語るアゲ太郎先生。創作でない、過去に道徳的に行動し、それを語れる人は少ない。
 今まで会うことはなかった珍しいタイプの校長に、私は好感を持った。その年、先生は受験を目の前にしている3年生(総勢200人以上)のために、受験面接の練習をしてくれたのだが、そのとき3年間ずっと間違った制服の着方をしていたことを指摘されて、私はとても恥ずかしい思いをした。

 ……実はそのアゲ太郎先生赴任の1年前、ある匿名の手紙が学校に届いていた。『私はひどいいじめを受けている。これが続くなら、私は自殺します』という旨のものだ。
 思えばあれは、いじめ自殺が全国的に報道され始めた頃だった。
 急遽、当事者が所属するらしい学年、2年生生徒が武道場に集められて……、ファジイな集会が行なわれた。そのいじめについて、よく知る生徒はいただろうし、教師らも見当がついていたと思うが、当事者を探そうとせず、皆に『やめよう』とだけ呼びかける集会を開いたのだ。
 いじめがなくなったのか、その集会が功を奏したか、私は知らない。ただ、私が卒業した後、弟から『クラスでひどいいじめが行なわれている』という話を聞いた。
 アゲ太郎先生の体験談に私は90点以上の点を付けたが、あの場には60点を付けた生徒も、30点を付けた生徒も、はたまた一切心に響かず、0点を付けた生徒もいただろう、当然、賛同しかねる教師もいただろう。
 皆がアゲ太郎先生の体験談に共感し、100点をつけるよう道徳教育すればいじめはなくなっていただろうか?
 ……いや、変わらないだろう。
 30点を付けた生徒も、0点を付けた生徒も道徳心に欠いているとは限らないのだ。ただ、アゲ太郎先生と異なる価値観を持っているだけで、『正しさ』『正義感』他、道徳の全てを合わせて二次元、三次元的見たなら、120点のベクトルを胸に秘めているかもしれない。ただ、皆の価値観で『正しさ』を合わせると、その稀有なベクトルはスポイルされてしまうのだ。

 だから生徒皆から、忌憚のない意見を聞き、私もまた語るべきだった。
 たぶん、『正しい行い』の価値観は大きく分かれても、『正しくない行い』の価値観にはさほど違いがないのではないか。
 何故なら『正しさ』には力が要る、力の無い者には選択肢を選びようが無い。故に『正しさ』を行使できる人には羨望の入り混じった反発を抱いてしまうのではないかと思う。自分の力を信じられない子供は特に。
 だから先ずは、『正しくない』について自由に論じること。『正しさ』については、力を獲得してから考えればいい。

・『教室』を出て、道徳教育を行なう。
 本当にいじめをなくしたいならば、道徳の授業は『教室』で行なうべきではない。
 空間ではない、構成要素を解体するということだ。あえて説明したくもないが、いじめっ子と、それを見て見ぬ振りする教師が居合わせる場所でどんな道徳が教えられるというのだろう?
 いじめ被害者に外と繋がれる機会を与えるとともに、自分たちの道徳観が歪んでいないことを確認させるためにも『教室』を解体すべきであろう。

 一つ提案したい案は学年の垣根を取り払うこと。
 つまり同じ時間、学校全体、ランダムにシャッフルした生徒、教師を集めて道徳の授業を行うことだ。
 これは簡単にできる。

 もう一つは外部の講師。風通しを良くするために効果的だと思う。
 例えば、現役大学生グループに特別講師をお願いする制度ができれば良い(4~5人がよい。原則1人は却下、責任者判断で自由に)。
 ボランティアではなく、国が報酬を出すこと。偽善と思われない方が気楽に参加できるだろう。そして、インターネットで動画配信し、授業内容について自由に討論できると良い。
 こちらは簡単では無い。しかし、曖昧で限がない努力目標を押し付けるより、多様な答えに辿り着けるのではないか。


●最後に、道徳は道徳を必要とする子へ。
 正確に内容を覚えている者はいない、『バナナはおやつに入りますか?』は教育的にほとんど影響を及ぼさなかった。
 ただ日本人の精神性を如実に表した話というだけだ。

 道徳は万人に通じる方策になりえない。
 直感ではない、実感だ。大多数の善良な日本人は『正しい』事も、『正しくない』事もどうでもいい。
 『正しい』へ導く妙案など昔から無く、未来もありえないだろう。
 考えるまでも無い。何百、何千人もの知の巨人が挑んできた難問を、凡俗の衆が一朝一夕に構築できるものか。
 個人としての『正しさ』を求めるのは自由だが、全体としての『正しさ』を求めるべきではない。『正しい教え』は都合よく捻じ曲げられて、必ず歪むことになる。

 道徳の力は弱い……、一体どれほどの人がその力を心から信じている?先頭に立って、「綺麗事」「所詮は理想」と指差して嘲笑っているのは誰だ?
 心の底から道徳を必要としているのは、『正しさ』に人生の価値を見出している子と、『正しくない』事を目にして真剣に悩み、考える子だけだ。
 だから汎教育への適用は狭めて、個々教育へ。道徳教育は開かれた校門、セーフティーネット型にするべきではないか。

 答えはない。
 問題提起を積み重ねて行くことこそ、道徳の礎ではないか。

【道徳を勧めない】はこれで終わりです。御読了有難うございました。

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