敢えて考える。勧めるべき3つの『親の礼』:選択肢の1
●リトレイス[Retrace]
繰り返す、跡をたどる。語源は『back + trace』、自分の辿った人生を丁寧に子へ伝えること。また、変遷してゆく世の中(次世代環境:子の住む世界で、自分は一切関わらない所)への研鑽に労を惜しまないこと。
先の3つの努力に照らし合わせて考えると、当然リサーチ(自分の経験、努力の記憶はその大きな助けとなる)が、それ以上に日々のリニューアルが要求される。
前節で議論したリニューアルとは方向性が異なる。予め目標水準を設定して働きかける、言わば積極的リニューアルだ。子の成長を見極めるという意味では同じだが、それをフィードバックして親の対応もまた頻繁にリニューアルする必要がある。
代表的な例は、同じ競技を親子二人三脚で取り組んでいるケースだろう。スポーツ嫌いの私には理解しがたいが、一日、二日の、はたまた数十分間のわずかな成長を見逃さないコーチングは理想的なリトレイスの在り方だと思う。
しかし、これが理想的教育というつもりは更々ない。
何といっても、リトレイスは片手間にできることではなく、親には相当な労力と愛情が求められることだ。半端な者が行なってできる事ではない。
しかし、丸きり別世界の話ではない。少なからぬ人が無自覚のまま、半端に足を踏み入れ、それが大きな過ちとなることがある。
・受験はリトレイス困難である
最も身近で分かり易い例は受験だ。
果たして、成績表やテストは子の成長を表わすだろうか?あれはまさに死物である。あれを客観的評価基準として子を量ってしまったとき、あなたは身体を失い、『バケモノの子』に描かれた防犯カメラの如き存在になり変わる。断言する、身体感覚の無いリニューアルは過ちの元だ。
後悔、いや、現状に不満があり、自分と同じ道を歩ませまいと子に行わせようとも、体験による裏付けの無いリトレイスは失敗の元に繋がりやすい。子のスケジュールを埋めることで満足し、そのスケジュールの妥当性についてはほとんど検証できない、自分をリニューアルできないのではないだろうか?
目まぐるしく状況が変化する受験のアドバイスは簡単ではない、就職もそうだ。しかし、ついつい叱咤してやしないか?
1989年から90年に発表された清水義範先生の著書に、受験生を主人公にした青春小説『学問ノススメ』がある。
私が受験生であった頃、学校の図書館から借りて読んだときは、少々時代遅れだと思った(作品の舞台の時代背景は出版年より更に遡るだろうか。その後2007年テレビドラマとなったそうだ、ドラマの時代考証が気になる) 。
それでも、志望大学を話せる仲の良い友人が無く、世間に疎く孤独な受験生だった私にとっては貴重な情報源であった。当時、通わされていた進学塾が合わず、全く成績が伸びないことを「やる気が無いからだ」「恥ずかしくて、お前が大学受験することを世間に言えない」と責められ続けていた私は『丁度良い』と思い、それを母に見せて話題にしようとした。
母は間髪入れず次の言葉を返す。
「こんなもの読む暇があったら勉強しなさい」
内容を一切尋ねようとはしない。
私以上に受験事情が疎かった母へ、気付いて欲しくて搦め手から説こうと『学問ノススメ』を持ち出したのだが、失敗。諦めた。
今思うと、この時に逃してしまった機会は存外に大きかったと思う。
一度、その子と同じテストをして点数を競ってみたら良い。丁度、学生の時に友人としていたように。
……まぁ、きっと教育熱心な親御さんは勝たれるのでしょう。しかし、不正解であった問題の中に一問くらいは、子供が正解を出していることもあるのではないでしょうか?
・日本の[潜在的ルール]に裏付けられた『本心至上主義』
リトレイスは情に沿う教育姿勢、本心を重視するものだ。親は子の本心成就のために惜しみない力を注ぐ。
リトレイスの不全、失敗の多くはここだ。自分が子の本心を察していることを前提としているところにある。そもそも本心に齟齬がある、子の望みと親の未来設計かけ離れている場合、リトレイスは成り立たない。本心が通じ合わないと破綻する。
それに連なる問題、日本の其処彼処に『本心至上主義』とでも言うべきものが満ちていると思う。
それは『本心(素顔・本音)に従う行動が正しい』『自分の望むことは、誰もが望む』を前提にしており、
『相手(社会)の本心次第ではウソを吐いても良い、約束を破っても良い、それは許されるべき』『むしろ本心に反している行為こそがウソであり、偽善として糾弾されるべきである』『だから、ポリティカルコレクトネスなど欺瞞である』『社会制度的に不正とされる行為であっても、多数派の本心が支持するのであれば、言わば必要悪である』と。
それは「あなたのことは解かっているから」という暴力的な独善性に繋がる。
また、少数意見を認めたがらない。自分の正当性が揺らぐのを恐れて、例え自分に無関係な事であっても認めたくないのではないかと思う。
これもまた、年功序列といったヒエラルキー構造と結びつくと最悪だ。なんということはない、権力者が我儘を言い、弱者は我慢し諾々と従っているだけ。そこに本心に正直な社会などは無い。
『本心至上主義』は傲慢、馴合い、ハラスメントの温床だと思う。とはいえ、『相手を慮る心』を育むことを考えると、本心を尊重し(偏重が拙い)、相手の胸の内を読むことが悪いことばかりとは言えない。
一つ注意。親子の教育における限定で言えば、マイナス感情のリトレイスは慎重に考えねばならない。
具体的に言うと『悔しさ』の押し付け等。言うまでもなく勝負に負ければ悔しく、失敗を犯せば落ち込む。ただ、その感じ方には個人差があり、さらにその表出に個人差があることを忘れてはならない。このとき無神経な叱咤するならば、『ああ、この人にも見捨てられた。私はダメなんだ』と二重に傷つくこともあるだろう。
放っといても反省する自省心の強い子、負けず嫌いの子は慎重に見極めて、『悔しさ』を余計に増やすような真似は避けねばならない。
とかく、形だけ教育をなぞることは誰でもできる、問題は心に寄り添っているか否かだ。良い教育は素晴らしく美しく見えるものだ。しかし、真似事のまま教育をすれば次郎の母、お民の如くなりかねない。
繰り返し述べるが、リトレイスは簡単にはできない。真似をするならば、先ず目の前の子の仕草を真似ることだ。果たして、その子の心がどれだけ読み取れるか、自分の心を量ってみてはどうだろう。
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