果たして『考え、議論する道徳』となるか、それとも『空気を読み、沈黙する道徳』のままか?むしろ『「お上」を慮り、忖度する道徳』への後押しとなってしまうのか?

 やや長いが道徳教科化の論点整理のために引用する。

 小学校ではこの春から、中学校でも来春から、道徳が「教科」になる。検定教科書を使うことが義務づけられ、教員による評価も始まる。
 朝日新聞の社説は一貫して教科化に疑念を示してきた。最近の動きを見ると、その思いはいよいよ強い。
 文部科学省は、価値観の押しつけではなく「考え、議論する道徳」をめざすという。趣旨は理解できる。しかし、それは子の成長や地域の実情を踏まえた独自の教材と、授業の工夫で十分できるはずだ。いや、多面的・多角的なものの見方を養うという目標に照らせば、その方がずっと理にかなう。
 指導要領は「礼儀」「節度・節制」など約20の徳目を定めていて、教科書はすべてを取りあげなければならない。昨春の小学校用の検定では、「伝統文化の尊重や郷土愛」の要素が足りないと指摘された出版社が、物語に出てくるパン屋を和菓子屋に変えた。しゃくし定規ぶりに多くの人が驚き、あきれた。
 細かな条件を満たさないと国がOKしないのでは、創意も面白みも損なわれる。そんな教科書で「考え、議論する道徳」はどこまで実践されるだろうか。
 もうひとつの柱である評価も大きな問題をはらむ。
 心に優劣をつけることになるとの懸念を受け、文科省は他の教科のような数値ではなく、教師による記述式を採ることにした。他の生徒との比較や、徳目ごとの評価もしないという。
 しかし、先月末に検定を通った中学の教科書には、決められた徳目ごとに1~4などの段階で、生徒に自己評価させる欄を設けたものが目につく。また、出版社や各地の教育委員会は、教員向けに評価の文例集をせっせと作っている。
 人の心の内には、教師でも軽々に足を踏みいれるべきではなく、だからこそ内面の成長や変化を読み取ることは難しい。評価をせざるをえなくなった現場のとまどいと混乱が、こうした動きに表れている。
 そもそも道徳の教科化は、いじめ問題が理由とされた。多くの者が同調するからいじめは起きる。なびかぬ強さを培う授業が大切なのに、成績がつくとなればそれを気にして、先生が望む「答え」を推し量る気分が児童生徒に広がりかねない。
 教科書の使い勝手はどうか。評価は子にどんな影響を与えているか。真に成長を手助けする授業になっているか――。
 教員や父母らの声を聞いて問題点を探り、現場に即した見直しを柔軟に進める必要がある。
 朝日新聞の社説、2018年4月8日

 子供は少なからず大人(教師)の顔色を伺って行動する、これは遥か昔から変わることない自明の理である。
 その中には面従腹背の子もいるだろう、そんな子の心に道徳教育は届くのだろうか?果たして、いじめに対してどれほど効果があるのか?新たな問題の火種となることはないのか?
 結局、その疑義には明確な解答のないままだ。ただ、これから教師の負担(身体的かつ心理的)が増えるのは確実だと思う。


●規則と道徳、権利と義務。
・規則を守らせる権利?道徳は権利か?
 話は戻るが、規則違反に対する注意の在り方と正当性について考えてみる。

 『今は他人の子供を叱れる大人がいない』……、公共マナーを語るとき必ずといっていいほど出てくる言葉である。
 しかし、叱られる大人はどうだろう?他人に注意されて、つい『お前にそんなことを言われる筋合いは無い!』『何の権利があって言ってるんだ!』と言ってしまう人は少なくないのではないだろうか?
 『お前に何の権利があるんだ』、この発想は「お上」が道徳と同義であるという日本特有のルール観に由来するものだと思う。
 己の言行に対する正当性の主張・弁解は端から諦めて、相手が「お上」なら黙ってお縄につき、「お上」でないならこの一辺倒の『逃げ口上』を機械録音のように繰り返してその場をやり過ごそうとする。
 規則を守らせる権利?そんな権利が無いからこそ良いのだ。
(2019年、機械録音のように繰り返す「お上」の『逃げ口上』を聞くことになるとは。皮肉な話、道徳教科化の一年で「お上」は道徳と程遠い存在だと知らしめる事となった)

 哲学者カントは道徳とは義務に従うことだという。その義務とは、その人が生きていく上で従うべきルールのこと、カントはこれを「格律」と呼ぶ。
(法的な義務ではない。道徳が法的ルールに従うものならば、道徳は『○○罪という罪は無い』という一言であっさり死滅することになる)
 カントは、自分自身に対する不完全義務(すると賞賛されるが、しなくても非難されない)として「自分の知的・道徳的資質を向上させねばならない」を、他人に対する不完全義務として「親切にしなければならない」をあげる。
 その義務の観点から、ミホとキョウコの道徳を考えてみる。
 ミホが『キョウコの規則違反を見て見ぬ振りができない』と心から思い、規則違反を見逃すことは己の格律に反すると考えた場合、告発は「自分の道徳的資質を向上させねばならない」に従っている、道徳法則に従っていると思う。
 他方、ミホがもし『キョウコの格律の矯正』を目的にしてしまっている場合、『自分と友好関係の者は、道徳的資質を向上させねばならない』という行動ならば、それは歪んだ動機であって、そこに道徳法則はない。
 仮に、その行動が他人に対する不完全義務「親切にしなければならない」に該当するとしたとしても、道徳的指導が「親切」に値するかどうかは一概に言えない。それが客観的に「親切」か否かは、未来のキョウコが不利益を被るかどうかでしか判断できないだろう。
 道徳的指導が「親切」にあたるかどうかは、未来になってみなければ分からない。

 少なくとも『規則違反注意』の道徳性に限っては、自分自身に対する不完全義務を果たしているか否かで行動の是非を見るしかない。
 突き放した考えかもしれないが、道徳は当人の思い込み。道徳は主観でしかない。
 道徳が客観的に成立すると盲信していると、傲慢なマウンティングに陥り、相手の反感を招きかねない(道徳の否定的側面、『正しくない』者の断罪。善意と称した私刑リンチ)。
 『いじめられる側にも問題があった』という見方、『○○罪という罪は無い』という言葉は、その典型。単なる思考放棄である。


・道徳不履行権?
 一方、苦言を受けるキョウコの立場ではどうか。

 親交者の注意・苦言に耳を傾けることは、(建前上であっても)多くの人の格律に沿うのではないだろうか?
 故に、「言い訳」するのが誠実な対応、格律に従った道徳的義務とはならないだろうか?注意をされた者は、そのことにちゃんと応答するのが誠実だろう。
(言い訳:①申しわけ。弁明。弁解。転じて、過ちを謝すること。②ことばの使いわけ。広辞苑第二版より。「言い抜け」と混同されがち)

 問題は前述のこと。見ず知らずの他人の注意の場合だ。深刻なトラブルに発展することが間々ある。
 そのため、侃侃諤諤と道徳教育の必要性を儀論しているのだろうが、むしろ日本では親交関係者間では軽微で済むから問題にならないのではなく、実際は対立を避けたいがために注意・苦言を飲み込んでいるため、問題が表面に浮かび上がっていないだけではないだろうか?
 つまり、見ず知らずの他人との係わり方の未熟さよりも、むしろ親交者との係わり方の未熟さが現代の社会問題の核心ではないだろうか?そのために先ず、親交者に注意・苦言できるか、親交者からの注意・苦言に耳を傾けられるか、考えねばならないのではないか。(また、2019年は思い当ることばかり)

 手始めに、思わず逆ギレしてしまった過去を振り返ってみること。自分が叱られた体験を誰かに語ることは容易ではないはずだ。
 改めて……、権威の下に注意が行なわれるのではなく、違反者が言い訳の義務を果たすか否かを争点とすべきである。でないと、議論が噛み合わないまま時間ばかりを浪費して、互いに苛立ちを抱える事となると思う。
 言うべきことは言い、謝るべきことは謝り、互いの認識に誤解がないことをはっきりさせるべきではないか。
 その人が規則を不当だと本気で思っているようなら、それを注意者個人に向けるのではなく公に向けて主張し、変更の申し立てをするように勧める。

「たかだか百円、二百円に目くじらを立てて、下らない話」
 ……正にその通りだ。
 くだらない規則と思えばこそ、公に訴えて変えれば良い。
(そういった努力をする気が端から無いなら、安直な規則を作るな。また、規則違反するな、と)
 三百円に増やすなり、もしくは撤廃して完全自主性にするなり……、違反者の弁解に耳を傾ければ、その規則の不適当さ(もしくは妥当性の裏付け)が分かるはずだ。(……しかし、『たかだか〇千万の税金に目くじらを立てて、下らない話』等という話を耳にするとは思いもしなかった)

 『正しさ』を目指す意志こそが道徳であって、道徳は社会的『正しさ』ではない。

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