自分の真ん中を生きる
きょうはこの記事に出会えただけでいい日だった。noteの記事ではないんだけど。
めちゃくちゃファンキー(褒め言葉)でハンマーフリューゲルな記事なので読んでほしい。うわー、って思う。目からウロコじゃなく身体を覆ってた鉄の鱗がガッシャガシャ落ちていくから。
いや、べつに自分、リンゴ売らへんし行商とかも関係ないし。そう思うかもしれないけど、ちゃんと読んだ人は「やばい、これ関係ありまくりやん」ってなる。なんで関西弁なのか。
早くも今年2021年に衝撃を受けた記事ベストに入りそうなんだけど、それはたぶん行商人 が「自分の真ん中を生きる人」だからだと思う。
真ん中というのは、もちろん考え方とか行動がという意味ではない。自分の生きるはずの真ん中を生きてる人。
子どもの頃から「自分の感覚」や「自分の問い」を持ってた人。持とうと思ってではなく、自分でも意識しない自分の中に自然に持ってたという感じ。ピュアに持ってたのだ。
で、あまりにも自分を持ってる子は、だいたいいまの学校システムからは疎まれる。
ふつうは(という言い方もあれなのだけど)ピュアに自分を持ってても、学年が上がっていくうちに「そういうのピュアに出すのは違うんだな」という感じで学習していく。周りを見て「賢く」なっていく。
だけど、どうしてもそれができない子もいる。
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みんなが学んでいく「当たり前の常識」「この世界で賢く生きるための知識や作法」を学ばないとどうなるか。
本当のことしか自分に入ってこなくなる。本当のというのも定義が難しいけれど、自分をちゃんと生きるために自分に本当に必要なもの、本当のことばや本当の音、つまり自分にとっての「本音」。
自分を何か他のものに合せて生きる(世の中ではこういうものが評価される、必要とされるからそれを学ぶ、身に付ける)から気持ちよく外れると、本当の意味で自分に関係ないものは入ってこなくなる。
どれだけ「これは学ばないと生きていけないよ」とか「みんなやってるよ」と言われても、それは「自分から外れた音」だから響かない。自分の真ん中にスッと入ってくる音しか本当の音(グルーヴ)じゃないのだ。
みたいなことを片山さんは「中学を中退した15歳」のときから身を持って知ってるからすごい。
この先のストーリーもとんでもないのだけど、それは記事を読んでもらったほうがよくて。けど、なんでわざわざnoteに書いてるかというと、自分がちゃんと自分の真ん中を生きてないと、やっぱりどこかで「違和感」を感じてるから。
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ふだんは忙しいから意識レベルでは気づかない。でも本当はどこかで気づいてる。
人間も物体だからそれぞれ固有の周波数(振動数)を持ってて(怪しい話ではなく物理の話)、無意識レベルではなんとなく自分に合う、合わない、心地いい、心地良くないを判別してる。
けど、そんなことは忙殺されてしまって、まあそんなに何でも自分の思うようには生きられないさって言い聞かせたり、それが「大人になる」ってことだと納得させる。
自分以外の何か周りのもの、自分の外にあるものに合せて自分を最適化させる「能力」が高いほうが、これまでの世の中ではうまくいったから。それは否定するものでもない。
でも、そうなってきた前提が崩れた世界ではどうなんだろう。合せるはずの対象が消滅したら何もなくなってしまう。本当のゼロだ。
だとしたら、むしろ周りと合わせるとか需要がとか評価がとか関係なく「自分が素で跳ねる」自分の中にある音とグルーヴしたほうがいいんじゃないか。
それは片山さんの場合は、ジャズみたいな即興でのリンゴ売りの行商だっただけで、みんなそれぞれにあるんだと思う。
僕もいろんな人を取材させてもらっていて、ほんとに何があっても、どれだけ持ち上げられたり打ちのめされたりしても、ちゃんと自分の真ん中を生きられて「いろいろあるけど、いまが楽しい」と本当の音を出せる人は残ってる。
自分の真ん中を生きてる人はやっぱり強い。むしろいまの時代は、自分が合わせなくてもいろんなものを惹きつける魅力になる。
そして、その真ん中は他の人から見てズレててもいい。自分にとっての真ん中であることのほうが大事なんだから。