戦士たちの思惑

人と人の関係で仕事したい

やばいなと思う。いい意味のほうのやばいじゃなくてだ。

仕事はしている。だけど「仕事をしている」だけになってるんじゃないか。そこがすごくだめな感じがする。この人なにを言ってるんだろうと思われるかもしれないけど。

このまま「仕事の関係だけで仕事をしていていいのだろうか」とあらためて思ったのだ。いや、うすうすは思ってた。

ちょっと前のnoteのこの記事とかを読んで余計にそう思ったのだ。ああ、いま自分は「自分」と「この人」の関係で誰かと人としてのなにかを共有しながら仕事がしたいんだと。いつもお世話になっておりますではなく。

いや、そうなってもちゃんと挨拶はするけど。キーボードで「い」って打ったら「いつもお世話になっております」的なのがずらっとサジェストされる関係で仕事をして、気がついたら「自分」も「誰か」もそこには存在せず「仕事」だけが残っていたというのではあんまりだ。

べつにライターと編集者の関係に限らない。ライターと職人さんの関係でも「人と人の関係」でなにかを共有することはできる。

お互いにやることや専門性は違っても、人として一緒に成長できてお互いそんな話ができるような。なんだか魂レベルでそういうのを求めてるような気がする。

昔はそんなのミリほども思ってなかったけど。むしろ、「人と人の関係」を仕事に持ち込むのが面倒くさかった。そういうのは極力避けていた。相手が「人間的な何か」を僕に見せてくれても「あ、べつに仕事なんで」という感じだった。まったくどうかしてた。

        ***

文章を書く仕事は間接的に「人に触れる」仕事だ。一時的にでも相手の生き様、人となりと不可分な何かに触れることがある。家族でも気付かなかったり触れなかったりするようなことにもだ。

ある種の医師やカウンセリング、コーチングなどでも同じようなことはあると思う。ただ、それらは治療や成長などの目的、目標に沿って出てくるものだ。

ライターが触れるのは、ときにはどこにも辿り着かないものだったりする。「仕事」の範疇からこぼれるような話がおもしろかったり、大切でずっと話していたかったりするのだ。

だけど仕事だけのコンテクストの中ではそれが難しい。いつもお世話になっております。昨日の心の闇の話ですが、とはならない。そんなメッセージをもらっても相手だって困るだろう。

だから僕はこれまで、そこをアンコネクテッドにしてやり過ごしてきたのだと思う。

でも、それってつまらないね。人間として。

もし僕がnoteを使っていなければ、ずっとつまらない人間でいつづけたかもしれない。

ここでいろんな記事に触れなければ「人と人の関係」で仕事をしている人がいることを思い知ることもなかったのだ。

あるいは知ってはいたけど見て見ぬをしていたのを、noteのフラットさ故に素直に「人と人の関係」で仕事するのいいよなと思えるようになった。

そう考えるとnoteすごい。

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