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好きでやってるだけを増やしたい
不意打ちだけど、めっちゃそれと思った。かおるさんのツイート。
料理に限らず、スポーツだって文章だった、下手の横好き、だって良いと思うんだけど、SNS等で出来栄えが可視化されるから、周りがみんな凄くて落ちこむって人もいるんだろうな。
— 仰かおる@チョコ沼の河童 (@aogikaoru) May 17, 2020
「下手の横好き」って言葉があるけど、もしかしていまってネガティブに捉えられてる? 下手なくせに何熱く語ってんだろうとか。下手なのに見せてよく恥ずかしくないねとか。
かおるさんも言及してたけど、いまって「自分の好き」がSNSでも何でも可視化されるから、ちゃんと評価される「好き」じゃなければ「これ好き」って出しづらい風潮あるのかもしれない。
同じ好きなものでも周りみたらすごい人いっぱいいるし、ただ好きでやってるだけじゃ、居づらい、やってても駄目みたいな。
でも、それよく考えたら(よく考えなくても)おかしな話だ。
自分が単純に純粋に「好き」なもの、好きでやってるもの、好きで追いかけてるもの、好きで表現してるものがあってなんでそれを「恥ずかしい」って思わなくちゃいけないのか。
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べつに、自分の好きなもの、好きでやってることを誰かに認めてもらわなくても、いいねとかアクションもらわなくても「好き」に変わりはないんだし。
僕だって、ただただ「自分が好きだから」でやってることで、いちいちSNSに上げたりしないことをいくつか持ってる。下手だから、言うのが恥ずかしいからとかでもなく。
あえて出さない美学とかでもなくて、べつに出す意味を考えたことがないだけ。
誰かに知ってもらわなくても、アクションもらわなくてもほんとに自分が好きでやってるだけだからそれをやれてれば十分満たされるから。
まあ、レピュテーション社会だから、表に出さない自分だけの好きを持ってたって「得」しないことのほうが多いのもわかる。むしろその文脈では生きづらいかもしれない。
だけど、そういうのと切り離されるとき(いずれ人は確実にそのときが来るんだし)、評価とか何も関係なく「自分の好き」をいくつも抱きしめられてるほうがなんとなくしあわせな気がするんだよな。