おやつ時間
心が荒んだとき、悲しくなったとき、
僕は、おやつを食べる。
心が荒れて、心の中がとてもとても痛くて、苦しくて、暴れだしそうなとき。
悲しい出来事がなくても、なんとなく悲しくなってしまう、泣きたいと願ってしまう、そんなとき。
心がストレスや、日々の変化で疲弊したときは、いつだって、そこにおやつとお茶が支えてくれた。
最近は、くるみクッキーを食べた。合わせたのは、浅蒸し煎茶のあったかーいお茶。
今回はティーポットで。
いつもなら、きちんと測る茶葉の量を、目分量で。
少しだけズボラに。でも、自分を思う時間なので、丁寧に。
自分時間のおやつは、自分だけの世界。自分だけの優しい世界。
だって、自分しかいないのだから。
ティーポットに、茶葉を入れて、少しだけ水を入れる。
お湯を冷ます時間が、今は少しだけ待てない気持ち。
そんな日は、お湯の量を考えて、水を茶葉に浸しておくのだ。
お湯が沸くまでの間の時間に、おやつをお皿に移す。
今回のくるみクッキーの個装が、うまく開けない。
お湯が沸くまでに十分な時間があるから、ゆっくり慎重に。
クッキーが、破れてしまったら大変、私の心が落ち込んでしまう。
少しだけ息を止めて、不器用なりに慎重に袋を開けていく。
そっと。
ふーと、脱力のため息を出す。
きれいに開けられた。今日はいい日だ。
おやつ時間は不思議時間。
メンタルの弱い僕は、いつだって落ち込みやすい。些細なことで、苦しみを抱いてしまう。
だからこその、おやつ時間。
一種の瞑想なのかもしれない。
自分を生きるための、大切な時間。
「自分」という存在を認めて包んであげる、優しい時間。
「今日も頑張ったね」
「言いたいことも言えない自分なんて嫌だ」
「でも、伝わったよ」
自分を責めることはとても簡単にできてしまう。
でも、自分を慰めたり優しくすることに関して、僕はとても苦手だ。
そんなとき、
一杯のお茶が僕を柔らかくしてくれる。そして、その効果を更に発揮させてくれるのが、おやつだ。
こわばって、自分で自分の首を締めたがる僕に、
お茶が、人間のような言葉をかけるとするなら、きっと僕にこう言うだろう。
「肩の力を抜いていいんだよ」
なんて妄想していく。
お茶を飲むと、すーっと肩の力が抜けるような感覚に陥る。
それは不思議な感覚で、きっと科学的に言えばなにかしらの名称があるだろう。
僕の感覚で言えば、初めてココアを飲んだときのような気持ちになるのだ。
初めて飲んだココアは、甘くて、甘くて、それがとても優しく感じられた。
不思議と、その当時を思い出してしまうんだ。
ココアのようなまったりした甘さはないのだけど、色合いだって真反対なのに。
なんだか、不思議な心地になるのだ。
そして、そんなお茶たちをさらに映えさせるのが、おやつ。甘い系やしょっぱい系だ。
僕は、和菓子が好きなので、いつも和菓子だけど、時々食べる洋菓子も美味しい。
主役はお茶だけど、おやつ時間になくてはならないのが、おやつだ。
僕がいつも選ぶおやつは、なんとなく。その日ほしいと強く願ったもの。
より、大切に自分を思いたいときは、和菓子。それも、生和菓子。
ねりきりなどの、職人さんの思いが詰まった、芸術作品を食べる。
近くの駅の和菓子屋さんがたくさん並ぶコーナーで、あるきながら物色する。
生和菓子は、見た目も楽しい。きれいって言葉が似合う気がする。
その季節ごとに変わる、和菓子の名前と形。
これはどういう意味を込めて、作られたのだろう。と想像するのも楽しい。
一度で二度美味しいというやつだ。
そうやって、お茶とお菓子を味わいながら、家の窓から見える景色を味わう。
雨が降っていたり、天気が良かったり。
曇っていて、天気がパッとしなかったり。
そんな季節の1つ1つが、とても楽しい。
今日は曇りだけど、雲の影が全部違うとか、
晴れた日に出る雲の形が、面白いなぁとか。
そんなふうに、ぼんやり見上げていく。
気づいたら、おやつもお茶もなくなっていて、あぁ、今日もいい時間過ごしたなぁ。なんて思うのだ。
今日もいい時間。
そしていつの間にか落ち込んでいたことを忘れていくのだ。