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「その年、私たちは」-私的考察

私なりの考察の前段階として、
前半のあらすじ記事を書きました。
参考にしてください。

🔳その年、私たちは/無駄な時間

「何もせず平和に暮らしたい」
「昼も夜ものんびりと過ごすのが夢」
「必死に生きたくない」
チェ・ウンは、学校の机で、ベンチで、両親の店の縁台で、実際よく寝ていた。画家として成功した後も、覆面画家として素性を明らかにせず、変わらない毎日を望んだ。

一方のヨンスは、「時間を無駄にするのが嫌い」同僚との飲み会も、セッティングされたお見合いも、できれば行きたくない。時間があるならば、有意義にすごさなければ気が済まない。
マイペースでのんびりしているウンと、強引で自分勝手なヨンス。性格が正反対の2人の初恋と再会のシーンが、流れていく。

過去の恋人時代シーンには、頑なで意地っ張りなヨンスに振り回されつつ、愛する彼女に尽くす優しいチェウンがいる。素直になれないヨンスが、結局はウンを何より大切にしている姿もあった。お互いが相手の気持ちを理解できずにすれ違う姿も。
そしてそこには、一瞬が永遠となる2人の時間があった。

「時間を無駄に過ごすこと」それは、実はウンにとってもヨンスにとっても、彼らの劣等感の写し鏡だった。
ウンは時間を無駄に過ごす自分を嫌い、ヨンスは時間を無駄に過ごせない自分が嫌いだった。
そしてそれには、誰にも言えない理由があった。

ウンがいつも時間を無駄に過ごしているとヨンスは言う。それは素直じゃないヨンスの焼きもちを隠す言葉だったりしたのだけど、ウンは情けなさに心がうずくのを気づかぬふりをした。
再会後の「もう、うんざりだ」は、実はヨンスに向けてというより、ヨンスに必要とされない情けない自分と無力感からの逃走なのだと思った。


🔳劣等感と枠(フレーム)

「その年、私たちは」は、一見するとキラキラ眩しいセンスのよい恋愛ドラマだ。
けれど、自分のことが好きになれないという普遍的な、特に若い時に悩みがちな劣等感・欠落感というテーマが横たわっている。
そうしてさらりと、本棚にある「人間失格」が映っていたりする。

ウンは実父から、まだ幼かったある日突然、捨てられた人間だ。
ヨンスには、借金や貧乏という、周囲より残酷な現実を背負っている劣等感がある。
そしてそのことを2人は誰にも言えなかった。
ドラマの中でもそれは徐々に明かされる。
わかりやすい物理的な障害ではなく、劣等感という目に見えない羞恥心が、かつて恋人だった2人の別れなければならない理由となった。
ヨンスは、不自由ない家庭で育つウンと借金事情を抱える自分とでは住む世界が違うように感じて、自分の現実が哀れで、そして惨めだった。しかもその劣等感をウンに知られてしまったらと怯えていた。本当の自分を知られる前に、彼の前から去りたかった。
突然ふられた側のウンには、別れの理由がよくわからなかった。

画家となったウンの家が象徴するもの。
そのリビングの窓。
すぐ先に壁が見えている。にもかかわらず、差し込む陽光がキラキラとして綺麗だ。格子につたう光を浴びた緑も美しい。
けれどこの家は、閉じ込められている暗喩でもあるように思う。
ウンもヨンスもそしてドキュメンタリーを撮る側のジウンも、自分が決めた自分という枠から出るのをひどく恐れている人ばかりこのドラマには出てくる。枠が自分を保護するゲージでもあるかのようだ。
あのキラキラと輝く窓の格子が、鉄格子のようにも、植物が溢れている庭が、箱庭のようにも思えてくる。
自分の決めた自分という枠から出るのが怖いのは、彼らが家族という自分では選べなかったものによって、もう十分に傷ついてきたからだろう。
ウンもヨンスもジウンも
「こういう時はこうすればよい」
という自分のための処方箋をたくさん抱えて生きてきた。
例えばジウンの「計画通りにしてひたすら傍観さえしていればいつかは慣れていく」
ウンの「困難や面倒事と出会いそうな時にはまず逃げればよい」
ヨンスの「ツラくないフリをする。1人でも大丈夫なフリする」という処方箋だ。
それはこれ以上傷つかないためにと自分に課したルールのようでもあった。

自分のことを客観的にみるのは、実はとても難しい。ドキュメンタリーという枠は、自分ではわからない自分の姿を映しだしていたように思う。
10年前の2人は、決められたフレームの中にいる時、逆に枠から外れている姿を見せていた。
それは、初夏の陽光を浴びる若かった2人が、ルールを忘れて、感情を枠からはみ出させていた姿だった。

フレームからはずれた場所にいると思い込む自称傍観者ジウンも、映像の中に、隠しきれなかった感情を映しこんでいた。

アイドルのNJは、見知らぬ人々から画面フレーム越しに見られ続け、彼女がどういう人間かを勝手に決めつけられている人間だ。
見つめてくる多数の視線は、彼女に本当の自分をわからなくさせる。
彼女の孤独が、ウンの孤独に共鳴して、NJはウンに恋をした。

その後、彼らはゆっくりとしたプロセスを踏み、枠外への扉を怖々と開いた。
「その年、私たちは」は、恋愛物語であり、再会の物語であり、傷ついた者たちの恢復の物語でもあるのだ。


🔳繰り返す/永遠回帰と永遠性

もしもこの世の全てが、永遠回帰という繰り返しであるのならば。
永遠回帰と永遠性についての関心の高さもドラマは序盤にきちんと言及していた。

高校の図書室で、ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」をウンが借りようとするシーンが出てくる。
ウンがセリフで語っていたように、「ツァラトゥストラはかく語りき」は、世界は永遠に同じことを繰り返しているという永遠回帰という思想に基づき書かれたニーチェの本である。
そしてミラン・クンデラの小説「存在の耐えられない軽さ」を読むシーンもでてくるが、実はこちらもニーチェの永遠回帰という思想に深い影響を受けている小説である。
「存在の耐えられない軽さ」というタイトルそのものに、彼らの自分に対する自信のなさも滲ませている。
「その年、私たちは」には、回帰する繰り返しという重要なモチーフがあって、同じシチュエーションとなる場面が多く出てくる。
ヌアの盗作。ドキュメンタリー。図書館。本。偶然の雨。キス。留学。祖母の病気。。等々

ウンは父親に捨てられたことがトラウマで、それが繰り返されることを異様に恐れている。
夜に身体を横たえることすら不安な彼は、夜通し活動し昼間寝ている。しかも深くは眠れない。
それなのに結局、あの夜、ヨンスに捨てられてしまった。
別れの後、ウンは実際壊れた。
捨てられることを繰り返すのはもう耐えられない。
だから、ヨンスとはよりを戻せない。
けれどヨンスのいない人生も考えられない。
ならばどうすれば彼女と一緒にいられるのか。
彼は考えて考えて結論を下す。

終わりのない関係になればよい。

「僕たち、友達になろう」

これ以上傷付きたくなくて幾重ものルールを課してきたウンの、それでもヨンスを必要とする歪な必死さがあまりにも切ない提案だった。


🔳変わらないもの

捨てられるという強迫観念からいかに逃れるかがウンの人生のテーマで、そのために一番有効なのは、今あるものを取りこぼさないように
「変わらず、何もしないこと」
そう彼の中で答えは出ていた。
時には何もしないことが最善の選択だから。

ヨンスの存在だけが想定外だった。
ヨンスに恋をした彼は、ただ純粋に、彼女とずっと一緒にいることを望んだ。
永遠に一緒にいたい人が現れたらどうすれば?
永遠をもし獲得したいのであれば、どうしたらよいのだろう?
彼が求めていたのは、変わらないものだった。
どっしりと繋ぎ止められ、そこから動かないものが好きだった。
建物や木は、そこから全く動けずに、季節や時間だけが巡る。レコードも針は動かずにレコードだけが回る。
彼は同じレコードをかけながら、同じ場所で、変わらない建物の絵を描き続けた。
ヨンスと再会したことをウンは「君が戻ってきた時」と何度も言っていた。
自分は同じ場所にいて動いていないことを表してる。


2人で読んでいたシェイクスピアの小説「夏の夜の夢」には"取り替え子"がでてくる。
"取り替え子"とは、ヨーロッパの民間伝承で、人間の子供と、鬼のようなトロールの子供とですり替えが行われ、その際に置き去りにされた子鬼の方を指す言葉だ。

「知っていたんだね、僕が知ってること。
何か変わらなかった?」
「何も変わらないわ」
ドラマ最終話のウンと彼の母親の会話だ。
ウンはやっと母親に
「僕は母さんたちに似なくなるのを恐れていた。2人のようにいい人になんてなれない。2人から失望されるのが怖かった」
と告白する。
亡くなった子の代わりに"取り替え子"として来た自分が、いつか悪い親と同じように醜く変わってしまうのではないかと、そうなるのが、両親の愛を失うのが、ウンはとても怖かった。
今あるものを失わずに済む方法だけを模索した。
本当の子供の人生を借りている取り替え子である自分は、誰かと代わることのできるニセモノであり、多くを望むのは罪作りだとも感じた。

「他人の人生を借りて生きる時には、欲を出してはいけません。
何もしなければ、バレることはありません。
僕は幸せになる資格のない人間だから、無知なフリや興味のないフリをしていました」

それを繰り返していたら、無意味な人生の枠に閉じ込められてしまった。

変わらないものの対極にあるのは愛だ。
人の愛は、いつか変わってしまう可能性のあるものだ。けれど本当に繋ぎ止めたかったものも、真に愛なのではないだろうか。
変わらない建物を延々と描き続けるように、奥底では愛という形のないものをウンは渇望していた。

ヨンスに愛してると言えなかったのは、愛というどこにも繋ぎ止めようもない形ないものが、怖かったのだろう。自分の身体からとび出て言葉にしまえば、あの日の実父のようにいなくなりそうで。
自分の事も自分の人生も愛せない。好きな人がいても自分が相手に相応しいとは思えない。相手の邪魔にはなりたくない。
相手に相応しいと思えないから、それが言える自分だとも思えないから、どうしても愛してるとは言えなかった。
ウンだけでなくヨンスもそうで、別れた理由の根本は、これなのだろう。
あまりの自信のなさ。
しかも、それが相手にバレたらどうしようと怯えていた。
愛を口にできる場所までに、遥か自分が遠かった。


🔳同族

周りへの関心の薄いウンが、同じく画家であるヌアのことは妙に気嫌いしていた。
それは、彼が盗作してくる卑劣な奴だからというだけでなく、空っぽで何もないニセモノであるヌアと自分とが同族に思えて嫌悪していたのではないだろうか。
ウンも実は、自分が両親の子供のニセモノで空っぽな何もない人間なのだと思いこんでいたはずだから。
同族嫌悪であることは、彼となるべく関わらないようにすることで自覚しないようにした。
学生時代も、画家になっても、自分の絵を盗作されても、無視していた。
だが、自分と彼とを並べ立てて競わせようとする広告プロジェクトの企画を知った時、ウンは猛烈に怒った。
怒りはヨンスにだけ向いていた。
ニセモノ盗作者ヌアと同列に一緒くたにしてきて、やっと掴んだ平穏な世界をゆさぶってくるヨンスに、「人生(枠)をまた壊される」ようにウンは感じるのだった。
ウンは100時間かけて懸命に絵を描いた。
ヨンスに向けて描いていたのだ。
ヨンスにニセモノと思われないこと、それしか彼は望んでいなかった。

ヌアの登場で重要なのは、実はこの時でなく、ウンの美術展にやってきた時だろう。
自分は空っぽで何もないというコンプレックスがあること、周りにどう思われても、実際がどうでも、ウン自身がそう思い込んでいたということがわかる重要な場面だ。
ヌアの方でも、ウンと自分とは根っこでは同族なのではと感じていた。彼が哀れなように、ウンの人生も哀れなのだと、最も目を逸らしたい場所を突いてきたのだった。
前半のヌアの登場は、2人の空っぽなニセモノが存在するという暗喩であり布石だ。
ヌアとの勝敗の描写が曖昧なのは、これらのためなのではと私は考える。
ウンが生まれ変わりたいと動き出す、ターニングポイントともなるシーンだ。

ドラマの中で、同族であると思われる人たちは、他にもでてくる。
悪いくくりばかりではない。
むしろ良い同族たちだ。

実の両親を失い孤独を抱えるウンとヨンスだが、育ての親や祖母が、とても愛情深い人だというのも2人は同じだ。
正反対のようでいて実は似ているウンとヨンス。
そして名前まで似ている親友ウンとジウン。
片想い仲間のジウンとNJ。
無意味なことが嫌いだったヨンスとチャンチーム長。
観察者ジウンと後輩のチェランは、周りから性質が似ていると言われる2人だ。
変わり者と見られがちなウンとヨンスを見捨てずに近くで見守るマネージャーのウノと友人ソリも同族だろう。
ジウンの上司のパクチーム長やヨンスの上司である社長、そしてNJのマネージャーもまた、若い世代を見守る同族である。

このドラマは、誰かのことを誰かが必ず見守っている人物配置にしている。

パクチーム長がジウンの誕生日を覚えていたワカメのエピソードには心が暖まった。
部下チェランのジウンへの思いもチーム長はちゃんと知っているし、そんな3人それぞれのことをベテラン構成作家は黙って見守っているのだ。

これらの暖かな目線配置が、「その年、私たちは」がヒーリングドラマとなっている理由のひとつなのだろう。


🔳誰かに話すということ

誰かに心の中を話す、吐き出すことは、自分の内面と向き合う上での必要なステップだ。
自分でも気づいていなかった心の内の発見ともなる。

ジウンにとって、ウンは大事な友達だ。
辛いことがあると、いつもウンに会いにいく。話を聞いてもらう。
唯一言えなかったのは、自分もヨンスを好きなこと。
それでも、大切な友だちの大切な人を自分のものにしようとは思わなかった。
食事代を置くだけで入学式にも卒業式にも来ない母に幼い時から放りっぱなしにされていたジウンは、食卓を分けあい、家族まで分けてくれたウンがいたからまっすぐに生きてこられた。
母が死にそうだとわかった時も、ジウンはウンを呼び出し、向かいあって酒をかたむけ、心の重荷を打ち明けた。会って話すことで、惨めさも哀しみも分けあえる友達だった。
ウンにとっても、特別なことが起こった時に真っ先に報告したい友達がジウンだった。
「彼女ができたんだ!!」
あの日も、全身を喜びに満たしたまま、ジウンの元へと急いでかけていった。

ヨンスにも大学でできた唯一の友だちソリがいる。ウンと別れた時も、ツラくはないかと終始気にかけてくれた友だちだ。ソリにさえ辛い気持ちを見せられなかったヨンスだが、勢いでキスしてしまったとウンに言われたくなくて避けているとソリに見抜かれた時、無防備に涙を流した。ソリの前でやっと素直になれた瞬間だった。
そして別れた当時、唯一の肉親である祖母にも辛くて泣いているのを必死に隠していたヨンスなのに、
ウンに「ほらね、、僕らは友達になれる」
とふっきれたように穏やかに言われ動揺し、
「まだウンのことが好き。自分から手放したのに。どうしたらいい?ウンと友達になんてなりたくない」
その時初めて祖母の目の前で泣けたのだった。

ウンには必ず行方不明になる日があった。
それはおそらく、両親が実子の墓参りに行く日だった。
自分が取り替え子であることを思い知る日。
世界で一番自分が惨めに思える日。
今年もやって来たその日、ウンはドキュメンタリーの撮影を勝手に逃亡し、トラウマがあって外に出るのが怖い昔馴染みの犬チョンチョンに会いに行くのだった。しかしそこには、トラウマを克服して自由に外に出かけるようになったチョンチョンがいた。
自分だけが怖がりのままだ。さらに自分が惨めに思えて1人で酒を呑むウン。
そこに彼のことをずっと捜していたヨンスが現れる。
惨めな自分を誰にも、特にヨンスには見られたくなくて姿を隠したのに、彼は、その時わかった。
ヨンスが
「友達になろうって言ったよね、、考えてみたんだけど、私には無理。つまり、友達がイヤというより...私はあなたが...」
と話すのを遮り、
「会いたかった。ヨンス。
いつも会いたいと思ってた。
君が戻ってきた時、目の前にいる君になぜか腹がたって、、憎かった。
でも、わかった気がする。
僕は君に愛されたいんだ。
僕だけを愛してくれる君に会いたかった。
ヨンス、僕を愛して欲しい。
二度と離さずにずっと。
愛してくれ。
お願いだ」
ウンはその言葉をやっと口に出した。
2人は見つめ合ったまま、涙を流し続けた。

その後、街に出た2人。
「このビルの屋上を見るには、どうしたらいいか知ってる?」
道路に寝転がり、「寝転ぶんだって」
と言うウン。
ウンは幼い頃の思い出を語り始める。
「1、2...1、2...」
ビルの階数を数えている間に父がいなくなっていたこと。
その父が今の父ではないこと。
今の父と違う、本当の父がいること。
自分が捨てられた子供だったこと。
「笑えるだろ。そんな風に子供を捨てるなんて」次第に泣きじゃくるウン。
今まで誰にも、両親にさえ言えなかったことをウンは言えたのだった。
ゆっくりウンへとキスをするヨンス。
2人にとって、まばゆい昼間よりも美しい夜となった。

もうすぐ死ぬと突然告白してきたジウンの母が、さらに、私のことを撮って欲しいと彼にお願いする。最後まで勝手な母に、ジウンの気持ちは混乱する。
上司のパクチーム長には、記録する価値がない、理解不能だ、なぜ撮影すべきかわからないと話す。
チーム長はジウンに、自分の為に撮れ、憎むのも許すのも後でいい、今という大事な瞬間を無駄にしないで欲しいと話す。
入院した母の病室に来たジウンは、これが僕らの距離だと扉のあたりに立ち、
「今さら何なんだよ」と遠くから言う。
「このまま死にたくない。このまま生きた証を残さずに死ぬのは悔しいわ…」
病室のベッドに座ったやつれた母が言った。
「最後まで勝手な人だな」
「私は最低な母親よ…だから、哀れな人間だなと、あなたは気をもまず、時々顔を見せてくれればいい」
ジウンがベッドへと歩を進め言う。
「子供を放って生きるなら、会いになんか来るな」
黙る母に
「何か言ってくれ」と促すジウン。
「私のいないところで笑っているあなたをみかけた。私の不幸をあなたに背負わせそうで。どん底に落としそうで。だから抱き締められなかった」
母が過去の思いを語る。

「母さんを許せない。いや、許さない。子供を放置するべきじゃない。母親だろ。まだ幼かったんだ!今さら死ぬだなんて許さない、絶対に」
ジウンは泣きながら訴えた。
20数年かかって、ジウンがやっと母に気持ちをぶつけられた瞬間だった。

「でも、、僕の気持ちが変わるかもしれない。…生きて欲しい。僕も母さんもやり直さないと…。他人に頼るのはやめて、平凡に生きよう」
平凡な親子を夢みる気持ちに蓋をしてきたジウンは、これからは平凡に生きようと、母にそう言えたのだった。


気持ちを口に出せたことは、
ヨンスにもウンにもジウンにも、
かつて自分が本当はどうしたかったのか、
どうしてほしかったのか、
ということの確認作業となった。
そして、つかえていた気持ちを外に出せたことで、新しい道へと進むことができた。


🔳自分の内面と向き合う

ヨンスは他人同様の平凡な暮らしが夢という自分を惨めに思い劣等感を持っていた。
けれど、実は取り替え子でニセモノであるウンにとっては、それすら見てはいけない夢だった。未来に希望を持ってはいけないと戒めていた。 
ただウンは、ヨンスが関わることであれば、自分に進学も留学も就職も許そうとしていた。
ウンにとってはヨンスは、閉じ込められた枠から連れ出してくれる人だった。
ドキュメンタリーの中でも、フレームからとび出し、青葉の頃の2人はあんなにも輝いていた。
ヨンスに連れ出された日帰り旅のことも、ウンはずっと忘れられなかった。
2人でならば、どこへでも行けそうな気がしていた。
ウンにとってヨンスが、ヨンスにとってウンが、特別である理由だ。

ヨンスが消えれば、ウンはまた1人きり、変わらないものの絵を描き続けるしかない。
十分に傷ついてきた彼らは、さらに惨めに傷つくかもしれない不安から逃げるため別れた。
ついにまた捨てられてしまったウンも、ヨンスを追わずに逃げたのだ。
ヨンスに必要とされていると感じたことが、力の無いウンにはなかったから。
いつか捨てられそうでいつも不安だった。
別れたのは自分の傷みばかり見ていたせいだと、再会後に、お互いがやっと気がついた。

真夜中の美術館のシーンは、ずっと変わらずにヨンスが自分の中にい続けたというヨンスへの変わらない愛の確認であると共に、絵を描き続けるしかできなかった過去の時間の肯定でもある。
別れている間も、絵を描いている時、彼の傍らにはいつもヨンスがいた。
星も見えない地下の作業場で、夜通し絵を描き続けてきた時間。
1人きりの孤独な時間だからこそ、ずっと2人でいられた時間。
夜の時間を肯定できたことで彼は、閉じこめられた檻のようであった家という枠の扉を開けた。
「家に帰ろう」
ウンが言う。
その言葉は、囚えられた檻であった家が、2人の帰るべきホームへと反転する、切り替わりのファンファーレのようにも聞こえる。

美術展で、ヌアと美術評論家から、彼が空っぽで何もないことを指摘されたウン。意識的にそう生きてきた彼にとって、しかしそれは図星だった。
ジウンと会った後、まだ傷ついたままで帰宅すると、雪降る中、ヨンスが玄関前に座っていた。祖母が緊急入院してしまったヨンスは、ウンの美術展に行くという約束を守れなかった。
かつて別れた時も、祖母の入院という大きな出来事があった。
「私がまた全部壊してしまったかと、、ごめん、、ウン、ごめんね」
震えるように、素直に不安を伝える。
つらかった記憶が、同じ繰り返しになるのではというネガティブな予感をもたらして怯えさせる。
「君は何も壊したりしないよ」
ウンは優しく言う。
祖母に独り立ちを促され戸惑い余裕のないヨンスは
「つらいの。つらくてたまらない」
と彼の前で泣いた。
暖め合うように、ウンは泣くヨンスを抱き締めた。

その後、家の中で彼は、留学に君と一緒に行きたいと話し始める。
「始めからやり直したい。僕には君が必要なんだ。独りは耐えられない」
以前留学しようとした時には言えなかった言葉も、5年かかって、やっとウンは言えた。

『自分の世界に囚われたままの画家。
大人になりきれない幼稚さが見える。
感情を羅列したような絵は、殻に閉じ籠った子供の落書きにすぎない』
評論家に書かれたレビューだ。

「僕は今、ボロボロなんだ」
ウンも惨めな気持ちをヨンスに口に出せるようになっていた。
やりたいことを口にするのが初めてなウンに、
「ゆっくり考えてみる」とヨンスは言った。

クライアントであるチャンチーム長にも、パリ本社の新しいチームへと参加するため一緒に行こうと、ヨンスはヘッドハンティングされる。
「僕に必要な人だ」
ヨンスの仕事ぶりを高く評価するチャンチーム長。
プライベートと仕事の両方で、君が必要だと言われるヨンスだった。

絵を購入しにウンの家にきたNJ。
ウンの絵を見ると、私と同じように不安なのかな、寂しいのかなと思い、だけど完成した絵を見ると暖かくて、内面が強い人だと思えて、私も強くなれるような気がしてくると話す。
これが私の批評ですと批評家の言葉を打ち消すように付け加えた。
ウンは一瞬複雑な顔をするが
「その言葉に癒されます」と言った。
「韓国を離れるのは残念だわ。留学は寂しいわ」
「ヨンスと一緒に行くつもりです」
とNJに告げる気の早いウン。
「ヨンスさんの愛は本物なんですね。自分の人生より共にいることを選んだ。簡単にはできない」とNJが言う。
ウンは、ヨンスに自分が何を要求してしまったのかを悟るのだった。

ヨンスは留学に誘われたことで、自分の人生について考えていた。
入院中の祖母は、「私の為に生きないで」とヨンスに言う。
1人で人生に立ち向かってきたつもりだった。
けれど、実は、かつて祖母が入院した時に一緒にいてくれたソリオンニ、借金に困るヨンスに契約金を払ってまで会社に引き入れてくれた社長、仕事を支えてくれた同僚たち、振り返れば自分はいつだって1人ではなかったことに思い至る。
あの時もこの時も、誰かが、自分を思ってくれていたことに気づく。
仕方なく生きている人生だと思ってきた。
けれど、幸せな瞬間は確かにあった。
自分に精一杯で周りが見えていなかっただけで、そうではなかった。
自分を惨めにしていたのは、他でもない、自分自身だった。
ヨンスは初めて、自分の人生を愛せそうに感じた。

「私はいかない」とヨンスはウンに返事をした。
「このままここで、自分の人生を続けたい」

無口になるウン。だが表情は穏やかだ。

「大丈夫行ってきて。私たちは絶対に別れない」
ヨンスが自分で選びとった答えだった。
ウンもそれをまっすぐに受け入れた。
「どれくらいかかるかな。君にふさわしい人間になるには。君はカッコいい人間なのに、僕は時間を無駄にしてきた」

かつてヨンスは、自分に自信がなく、それを知られるのさえ怖がっていた。
今では、誰かに必要とされたからという受動的な理由ではなく、自らの意思で、主体的に自分の生き方を選択して、未来を見ていた。

選択肢すら消し去った取り替え子である自分との訣別のために、ウンが一回あの家を出る(海外へ一人で行く)という展開は必要だったように思う。
5年前別れを告げられた当時、ヨンス家には借金が膨れ上がり、そのために引っ越しも余儀なくされ、さらには祖母の入院という不幸まで重なっていたことをウンはようやく知った。
ヨンスはそのあまりに辛い状況をなぜ自分には言えなかったのか。
そう考えた時、2人で乗り越えて行けると信じてもらえる自分ではなかったからだとウンは思った。
実際、ヨンスを心から愛してはいたけど、当時の彼は自分を守ることで精一杯だった。
木や建物のように変わらずに動かないままで、ヨンスが自分を必要としてくれるタイミングをひたすら待っていた。

彼は初めて、生まれ変わりたいと思った。
ヨンスが別れを告げた理由も、彼女の口から言える日まで、自分を信じてもらえるまで、待とうと思った。

ウンは、街角の建物に隠れて自分を見ている人影に気づいていた。おそらくそれが実父であろうということも。
海外に行く直前に彼の働く場所に姿を見せ、
『これ以上傷つく必要も、避ける必要も、謝る必要もない。--もう十分だから、互いの人生を生きよう』
と直接声はかけずに、まっすぐ立って遠くから対峙する彼に、心の中で語りかけ、去るのだった。

そうして彼は家を出て、無駄に重ねていた空白を埋めるようにじっくり一から勉強をし直した後、ヨンスの待つ2人のホームへと帰ってきた。 

ウンは過去の時間も現在も未来も受け入れて、ようやく、強迫観念的繰り返しの呪縛から脱却した。
繰り返したくないなら、 "自分が"、繰り返さないようにすればよいと思えるようになった。
そしてやっと、「愛してる」と言えるようになった。
言えた場所は、かつてヨンスから別れを告げられた、あの坂道だった。

それは恋人たちの愛の場面であり、"捨てられる" "繰り返す"という強迫観念をウンが乗り越えられたことを示す、再生のシーンなのだ。


🔳ドキュメンタリー「その年、私たちは」

このドラマは、個人の内面を探るいわば私小説的な短編が、並列同時に進んでいき、結果群像劇となっているかのようだ。
今までにない新しい群像劇になっている。
ドラマの中に持ち込まれた内面を映しだすドキュメンタリーカメラはあくまで4つだったので、それ以外の人々は、4人との関わり合いは撮してもその人個人の内面の物語までは映していない。
それでも彼らは脇役というより、たまたま今回の内面を旅するドキュメンタリーが4人の4編を映し出す回だっただけで、誰もが主人公になれそうに思う。ウンの両親もジウンの母もヌアもオンニもチーム長も、誰もが。
語られないことで逆に、想像の余白が生まれる。
平凡であっても、この世界の誰もが、自分が主人公の物語はある。 
特別なことのない平凡な暮らしでも、スポットを当てれば、きっとそこには必ずドキュメンタリーとなる物語がある。
そのことをこのドラマは教えてくれる。


🔳恢復する者たち

高校時代の場面で印象的なのは、昼間の陽光の美しさだ。それは後年のシーンの2人も度々照らす。
『誰にでも、忘れられない誰かがいるとか。
思い出だけで何年も生きられるほど、大切な人が。
僕らにとっての、その年は......
まだ終わっていません』
という最後のナレーションへと繋がる意図もあるのだろうか。
通り去るひと夏のあの眩い光、2人はあの季節に似ているという姿をそのまま映し出したドキュメンタリー。人と関わろうとしない2人が過ごしたもうじき夏が始まろうとしていた季節。

2度と戻れないと知ってるからこそ、期間限定の青春を閉じ込めたようで美しく感じてしまうのかと最初は見進めていたけど、このドラマに限ってはどうやらそういうことではない。
そうして途中7話にタイトル「僕らの夜はあなたの昼より美しい」が入る。
あんなにも真昼が美しく眩しいのに、夜さえも美しいという2人。
ウンにとって、夜とは、捨てられた悪夢を連れてくるものだったはずだ。夜は孤独を包み込んで、優しく美しいものになった。
大切な人を失いそうになり、変わらないものを得るため、彼らは大きく変わった。

今日も明日も明後日も、何もかもが全く変わらずに同じでいてほしい。というのがウンの望みであり、祈りであり、呪縛だった。
ドラマには繰り返しという暗喩がたくさん出てくるけれど、呪縛から脱却できたことで、繰り返しは恐怖から肯定の意味に、またここでも反転が起きたように思う。

人間は変わるからと頑なに人を描くことを拒んでいたウンが、ドラマの最後の最後に、初めてヨンスを描いた。
変わるものとして、変わらないものとして、「初夏が好き」という本の最初のページの中に、初めて出会った日の制服のヨンスがいた。
繰り返す営みの中で、例え何かが変わったとしても、僕たち自身が終わらないと思いさえすれば、眩かったその年も、愛も、きっと終わらない。
そしてきっと、変わらないものは自分の中にあるのだと、彼らはやっとたどり着いたのだ。

最終話エピローグ。
ドラマは、三度目のドキュメンタリー撮影のために、ジウンがあの家を訪れる場面で終わる。
眩く美しい陽光が注ぐ中、再会した時には端と端に離れて座っていた白いソファーの上で、ウンとヨンスは寄り添っている。
制服のあの頃、仏頂面だった2人が、ドキュメンタリーのフレームの中で笑っている。
そして自己紹介を始めた。

「私たち、夫婦です」

2人は、自分の選択した自分の人生を、共に生きていた。
人生はきっと美しい。
私たちは、何度も生まれ変われる。


🔲後書き

ウン、ヨンス、今の2人ならきっと、手を離さずに、変わらないまま、共に変わっていくことができるでしょう。
あなたたちの心の旅に、傍で寄り添い、私も一緒に旅をした気持ちです。
本当にありがとう、泣いて切なくてドキドキして笑って嬉しくて、とてもとても楽しかったよ!

⏹️各話タイトル(映画題を引用)

第1話「僕はその夏 君がしたことを知っている」
第2話「1792日の夏」
第3話「僕が君を嫌いな10の理由」
第4話「あの頃、私たちが好きだった少女? 少年」
第5話「誰にも言えない秘密」
第6話「傲慢と偏見」
第7話「キャッチ ミーイフ ユーキャン」
第8話「ビフォー サンセット」
第9話「ただの友達」
第10話「こんにちは 僕のソウルメート」
第11話「僕らの夜はあなたの昼より美しい」
第12話「ビギン アゲイン」
第13話「Love Actually」
第14話「人生は美しい」
第15話「3人の愚か者」
第16話「その年、私たちは」

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