
「波」 ヴァージニア・ウルフ
鈴木幸夫 訳 角川文庫 角川書店
波
ほんとはユルスナール「空間の旅・時間の旅」でのウルフ論読んだすぐ後に読めばよかったのだろうけど、ここまで延ばしてやっとウルフの「波」(まさにユルスナールが翻訳した作品)を読み始め。
男女3人ずつ計6人の意識が途切れ途切れに描かれ、各章?の冒頭に海と波の緻密な描写がつく。という構成。
今読んでいるところはこの6人が臨海学校か私的な集まりなのか、とにかく子供時代のところ。だんだん個性(というかなんというか)が出てきて、バーナドは空想遊びが好きで、ルイスはオーストラリア帰りというコンプレックス、ロウダは一人で黙考する、など。そのロウダの葉かなんかで作った舟遊びのシーンは、これからの6人を暗示しているのかな。後気になるのはそのちょっと前にあった、(誰か忘れたけど)自分が草の茎か根と思っているところ。
ウルフの俗に言う意識の流れの手法というのは、当人達がその言葉の通りに思っているわけではなく、当人達の感じているなにものかをウルフが掬い上げて、言葉に再構成していると考えた方がよいのかな。今回はそう思った…
(2014 05/02)
波から波へ
4日間まるで手のつけられなかった「波」…
波がどんどんわたしの上に積み重なってくるの…(中略)…人がどんどんつづいていく、つづいていく
(p25)
ロンドンが粉々に乱れ飛ぶ。ロンドンがうねり波立つ。
(p28)
上は第1章?最後の、下は第2章最初の方の列車に乗っている時…場面は違うけど、それを越える大きな波が続いていく、という感じ。ウルフがどう考えていたかはわからないが、人の意識と意識を乗り越える何か(それがここでは波)を捉えていたのかも。もしそれが詩的表現だけではなく、実在するとウルフが考えていたとすれば、ムージルに近くなるけど、そこまではウルフは考えてなかったような気も…
(2014 05/07)
持ち物
「波」を昨夜、また少し。
私の持ち物を拡げられるような孤独がほしいの。
(p51)
これはスーザンの言葉あるいは意識だけど、読んでて自分もうなづく箇所。それにウルフの本音でもないかなあ。スーザン、ジニィ、ロウダとそれぞれ性格はいろいろ違うけど、なんか他のウルフの作品にも出てくる石とか何かを持ち帰って大切にしまおうという思いは、それぞれが持っているのが気になる。
(2014 05/10)
単一か複合か
「波」昨日は無理やり80ページくらいまで読み進めたのだが…
僕は一つの単一ではなくて、複合した多数であることかはつきりする。バーナドは、公然としては泡だ。
(p73)
まず、結構この訳古いので(その為かどうか…)「つ」が大きい。それはともかく、この場面の前にも後にもこれと似たような何らかの複合体としての自己ということが出てきている。前の記録で、女性3人は同じような意識を持っているということを書いたが、こうしてみると男性3人も同じか。男性の方が性格的にはブレが大きいような気がするが(一般的な話ではなくこの小説内での話)…
5月中に読めるのか?
(2014 05/13)
海を覗き込む時
僕たちは各々の相違を強調しようとしてきた。別個のものでありたいものだから、我々の欠点に重点を置いてきた。それに我々に特有なものに。だが、下の方には銅青色の環になってぐるぐる廻転する鎖があるのだ
(p134)
「波」より。この後、その鎖とは憎しみや愛情であると続く。
まず、この場面はインドに行くというパーシバルの送別会の場面。でもパーシバルは何も言葉も意識の流れも発せず、なんだかほんとにいるのかいないのかわからないままに終わる。一方、送別会に集まった例の6人も目の前のパーシバルについて話す(思う)というより、パーシバルがインドに赴いてからの姿をここで追体験しようとしているみたい。海の描写、インド亜大陸の描写、そして何故か謀反人とかいう言葉も(これはパーシバルの何かをも暗示しているのか?)・・・
上記p134の言葉はその海の描写に相乗る感じで出てくる。今集まっている6人の個人とその根。前にムージル引き合いに出して個人とそれを越えて行くものについて書いたことあったけど、ここはまさしく個人を越える、個人と個人を繋げ縛っていく下部の何ものかが描かれている。
(2014 05/18)
今日は、この作品の象徴みたいな文をピックアップ。
これからは雑多な群衆の中に突進してゆくばかり。海上を行く船のように、人波を掻き分けながら、打ち上げられたり叩きつけられたりして波にもまれるばかり。
(p172)
人そのものも、またその意識も波のよう。表面に出たり潜ったり…
(2014 05/21)
「波」の雪だるまの文
「波」は章冒頭の詩によるとお昼越えて3時くらい?6人の語り手も髪に白いものが混じり始め、死を意識し始める、そんな時期。今の自分くらいかな。
(2014 05/22)
昨日読んだところに雪だるまか何かのいい文章あったけど…どこだっけ?
今朝は230ページを越えて、バーナドが総括みたいなことを誰かに語っている(またはそういう形式の仮定でなんか一人で考えている)ところ。
(2014 05/26)
月曜の次は火曜
昨日の続き
しかしいま落ちる沈黙が僕の顔に孔をあけ、雨の中庭に立っている雪達磨のように僕の鼻を崩す。
(p221)
身体との結び付きで感じる言語表現とはこういうのを言うのだろうなあ。ただ、沈黙に関しては、自分とバーナドとの感覚は違うらしい…でも、それとも…
p242では、この6人のうち「孤立している背教者」ネヴィル、ルイス、ロウダの3人と自分は異なる立ち位置にいて、自分達は彼らを攻撃しているのだ…というバーナドの認識が現れる。バーナドによれば、波から波へ、親から子へ、子孫を残さないのは非難されるべき、ということらしい。でも彼の意識の波も次には彼らへの羨望に裏返る。
これ書いていた時のウルフは果たしてバーナド寄りの考えだったのだろうか…
作品中にリズミカルに現れる毎日の繰り返し、月曜の次は火曜、次は水曜…
(2014 05/27)
水曜の次は火曜
昨日はやや無理やりに「波」を読み終えた。最後の章?はバーナドの意識だけで、表面上は何らかの相手に話しかけている形式をとっているのだが…この相手とは誰? 読者?偶然出会った人?それとも死?
波は様々な個人の意識やものごとを越えて寄せては返す。バーナドの言う通り綿々と続く毎日を生きることが重要だとしても、それを越える波もある。リズミカルに月曜の次は火曜、火曜の次は水曜…と言っていたバーナドも、ある時には水曜の次は火曜…と言ったりもする。
解説には「再読に耐える」とあったけど、というより「再読しないとわからない」? あんまり再読しない…自分には困った作品ではある。
(2014 05/28)
そして、新訳で再読した記録はこちら